KM-23 報徳仕法

報徳仕法像の写真

相馬市民憲章(そうましみんけんしょう)のなかに「報徳の訓え(ほうとくのおしえ)に心をはげまし、うまずたゆまず豊かな相馬をきずこう。」という言葉があります。

この報徳の訓えは、江戸時代後期(えどじだいこうき)の天明(てんめい)・天保(てんぽう)のききんのあと、相馬中村藩が藩復興(はんふっこう)のため採用(さいよう)した興国安民の法(こうこくあんみんのほう)のことです。報徳仕法(ほうとくしほう)または御仕法(ごしほう)とよばれています。

また、この訓えは二宮尊徳(にのみやそんとく)が主導(しゅどう)した藩復興政策(はんふっこうせいさく)です。

どんな内容なのか、みていきましょう。

ききんの被害(ひがい)

中村藩は、元禄(げんろく)・正徳(しょうとく)・享保(きょうほう)のときには最高17万5千俵(ひょう)あまりの米の収納(しゅうのう) があり、人口もやく9万人に達して(たっして)いました。しかし、天明のききんのあとは、米は2万40俵、やく3万6千人に大きくへってしまいました。

天明4年(1784年)、藩は幕府(ばくふ)から5千両をかり入れ、養育料(よういくりょう)の支給(しきゅう)をしたり、北陸方面(ほくりくほうめん)から移民(いみん)をむかえ入れたりして回復につとめましたが、借金(しゃっきん)は30万両をこえてしまいました。

こうしたことから、文化14年(1817年)にはきびしい倹約令(けんやくれい)を出し、6万石(ろくまんごく)の格式(かくしき)を1万石に切りつめるなどの政策も実施(じっし)しました。この倹約令を「文化の御厳法(ぶんかのごげんほう)」といいます。

そのご、天保4年(1833年)に大きなききんがおこり、藩財政(はんざいせい)は底をつき、厳法をさらに10年延長(えんちょう)しなければならない状況でした。

そして弘化2年(1845年)に「興国安民法(御仕法)」をとり入れることになったのです。

御仕法の様子

御仕法は、藩主(はんしゅ)相馬充胤(そうまみちたね)の理解のもと、藩の一大事業(いちだいじぎょう)として積極的(せっきょくてき)にすすめられました。二宮尊徳自身が相馬の地をおとずれることはありませんでしたが、中村藩士で二宮尊徳の弟子(でし)であった富田高慶(とみたこうけい) が、二宮尊徳の代理として指導(しどう)にあたりました。

御仕法をはじめるためにさまざまな基礎調査(きそちょうさ)をおこない、村の過去何年かの税額平均値(ぜいがくへいきんち)から村の状況、村民の生活をあきらかにし、それをもとに分度(ぶんど)をさだめました。
分度とは「分限度合(ぶんげんどあい)」の意味で、経済面(けいざいめん)での自分の実力を知り、それにおうじて生活の限度をきめる、というものです。

御仕法は、弘化2年(1845)12月に城下にちかい成田村、坪田村からはじまりました。

成田村では、代官助役高野丹吾(だいかんじょやくたかのたんご)の家に村人全員があつまり、郡代野坂源太夫(ぐんだいのさかげんだゆう)と宇多郷代官志賀乾(うだごうだいかんしがいぬい)が御仕法について説明をし、富田高慶が御仕法をはじめる経過(けいか)と内容を説明しました。そして、まずはじめに村内善行者表彰(そんないぜんこうしゃひょうしょう)の投票(とうひょう)をおこないました。

そのほか、つぎのような事業(じぎょう)がおこなわれました。

  • 投票によって善行者を表彰し、褒美としてお金、鍬(くわ)、鎌(かま)などをあたえる 
  • 投票によって屋根替え(やねかえ)をする 
  • 投票によって村の模範(もはん)になる人には家をつくってあたえる 
  • 孝子節婦(こうしせっぷ)の表彰 
  • 困窮者(こんきゅうしゃ)への夫食米(ふしょくまい)をあたえる 
  • 無利息年賦金(むりそくねんぷきん)のかしつけ 
  • 新百姓取立て(しんひゃくしょうとりたて)の助成 
  • 荒れ地の開墾(かいこん)を奨励(しょうれい)する 
  • 堤(つつみ)・用水堀(ようすいほり)・掛入堀(かけいりほり)などの新築(しんちく)・修理 (しゅうり)
  • 植林(しょくりん)の奨励 
  • 橋や道路の普請(ふしん)

これらの事業により、農民の労働意欲(ろうどういよく)と生産力があがり、早い村は数年で復旧(ふっきゅう)しました。
復旧ができた村を「仕上げ村」といい、農民の借金をかえさせ、日課縄ない(にっかなわない)の積立金(つみたてきん)を倍にして、あらたに凶作時(きょううさくじ)のそなえをし、仕法を別の村にうつしていきました。

こうして御仕法は、弘化2年から明治4年(1872年)の廃止(はいし)までの27年間、藩領内(はんりょうない)226村のうち101村でおこなわれました。そのうち55村では完了しました。

現代にも生きる御仕法の訓え

御仕法の原理は、至誠(しせい)・勤労(きんろう)・分度(ぶんど)・推譲(すいじょう)を中心思想として、経済の復興と安定、そして民情(みんじょう)をゆたかにするというものです。
その精神(せいしん)は市民憲章にもうたわれ、今なお市民の心のささえとして生きています。

また、中村城跡(なかむらじょうあと)や市中央公民館前には「二宮尊徳像」があり、尊徳が身近な存在(そんざい)になっています。
さらに、愛宕(あたご・相馬市西山)の尊徳墓(そんとくぼ)や尊徳の供養(くよう)のためたてられた「地蔵堂(じぞうどう)」周辺は、つねに地域のひとたちの手で清掃(せいそう)されています。

 

言葉の意味

  • 至誠…こよなく誠実(せいじつ)なこと
  • 勤労…心身をはたらかせてしごとにはげむこと
  • 分度…自分の経済力(けいざいりょく)におうじた生活の限度をきめること
  • 推譲…後世(こうせい)へゆずりわたすこと
この記事に関するお問い合わせ先
生涯学習課 文化係

〒976-8601
福島県相馬市中村字北町63-3 市役所庁舎1階
電話番号:0244-37-2278
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更新日:2020年01月22日