メールマガジンNo.272(2012年8月31日号)君の未来に万歳

先日、故稲山正弘磯部地区分団長のご自宅に、お盆遅れの焼香に伺った。

仏壇には涼やか眼差しながら精悍な表情の遺影。

部屋の片隅には誕生を楽しみにしていた初孫のおもちゃが転がっていた。

去年の夏に生まれたというから、身重だった娘さんも厳しい避難生活の中で、この遺影に見守られて無事に出産できたのだろう。

正弘さんの母親ヨシコさんは82才。

代々の漁師だったご亭主を4年前に亡くして以来、正弘さんや孫たちに囲まれて穏やかな余生を過ごしていた。

小柄だが人の良さそうな表情が正弘さんそっくりだ。眼もとから頬のあたりの皺の一つ一つに人生の苦楽が刻まれている。

帰り際、犬のなき声に振り返った。正弘さんを待っているのか。

3月11日の大地震。

自宅で精密機械の下請け工場を営んでいた正弘さんが、ヨシコさんと身重だった娘さんに、「すぐに磯部中学校に避難してくれ!俺は消防だからみんなを逃がさねばなんねぇ。あっちで待っていてくれ!」そう言って消防法被を着て飛び出した。

奥さんは勤務している病院で地震の事後処理、長男の大輝くんは相馬高校で仲間と一緒にいた。

ヨシコさんは身近の貴重品を持ち、とにかく急ごうとしたが、正弘さんが可愛がっていた愛犬のアイも一緒に連れて行こうと思い、犬の餌をできるだけ携えて高台の中学校に向かった。

やがて次々に集まってくる集落の人々から、巨大な津波が多くの家や人々を飲み込んだことを聞いた彼女は、正弘さんのことが心配でたまらなかった。

今にも「大丈夫か!」と言って息子が顔を出すのではないかと思い、体育館から出て一晩中、車のなかで待っていた。

市から届いた、一人あたり半分のオニギリとコップ一杯の水も喉を通った気がしなかった。

深夜に正弘さんの友人から、「最後に見たのは磯部漁港の近くで避難誘導をしている姿だった」と聞いた。

漁港のある大洲地区は被害が最もひどかった集落で、建物は何一つ残らなかった地点である。彼は最前線にいたのだ。

夜が明けて磯部中学校から市街地へのルートが確保されたので、市の指定した避難所「はまなす館」に集落の人たちと一緒に向かった。

犬は持ち込み出来ないと思い、餌と一緒に知人に託した。

やがて市内に嫁いだ正弘さんの長姉が迎えに来たので、後ろ髪をひかれる思いで「はまなす館」を後にした。

その後、原発事故を心配した埼玉県に嫁いでいる次姉が3月14日に迎えに来たため、相馬を離れて正弘さんを待つことになる。

3月31日。

正弘さんが消防法被姿で無言の帰還を果たした。

葬儀場はまだ再開しておらず、取りあえずの火葬は4月2日。

私は学校再開の準備に忙殺されていたので総務部長が出席したが、消防団員をはじめ防災関係者など、会場あふれるばかりの参列者だった。

大勢の人が「正弘さんと最後まで」と、一同が見守る炉前ホールで、今から火葬というその時、ヨシコさんが棺にすがって、叫んだ。

「マサヒロー、偉いどー。偉かったなー。偉いどー。」

その時。

母の叫びを聞いた長姉が両手を天に突き上げ、絞り出すような声で。

「バンザーイ!」

勇敢にも最前線で津波に立ち向かい、多くの人々の命を救いながらも、自ら職に殉じた正弘さんに家族が手向ける、心の底からの別れの言葉だった。

場内の全員が、母の無念、姉の悲しみを我ごとに思い、号泣した。

稲山正弘相馬市消防団第九分団長。享年49歳。

震災当時、高校一年生だった息子の大輝くんも三年生になった。

父親に似て凛々しい顔立ちをしている。

その大輝くんが私にきっぱりと言った。「自分は消防士になって父の意思を継ぎたい」。

その心意気やよし。

大輝くんの思いのままに、真っすぐに育ってくれるよう応援することが、正弘さんへの恩返しである。

頑張れ大輝!君の未来に万歳!

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更新日:2019年09月30日