メールマガジンNo.271(2012年7月27日号)相馬野馬追いの出陣にあたり

去る5月。相馬家第33代相馬和胤公より、本年度の相馬野馬追いの総大将を勤めよとの御下命を賜り、謹んでお請けした。

もともと野馬追いは、平安時代の坂東の武装農民たちが所領安堵を妙見(北斗七星)に祈り、野生馬を追い、捕まえて妙見神社に献納するという軍事訓練を兼ねた神事だった。1323年、第5代重胤公が現在の相馬地方に下向した際にこの地にもたらされ、以来689年間地域の伝統行事として継承されてきた。中世から近世を経て現代に至るまでのこの地方の歴史は決して平穏なものではなかったが、神事の主催者である相馬藩主にとっては領国安堵と領民安寧を祈るための重要な儀式だった。
室町期から江戸期の間、相馬藩にとっては少なくとも二度の存続の危機があった。ひとつは戦国末期の伊達政宗の来襲、もうひとつは1783年から3年続いた天明の大飢饉である。大藩であった伊達の攻撃は凄まじく、第16代義胤公の下、兵馬は死を賭した数十回の合戦の末、寸土も譲らず国を守り切った。また天明の飢饉では1万8000人の領民が餓死し、人口が3万人に減少するほどの天災だったため、加賀藩一向宗の移民を奨励し国力の回復をはかり、さらに報徳仕法を導入し生産復興を成し遂げた。
困難に耐えながらも生き延びてきた我が故郷のたゆまない足跡の中で、相馬家をはじめ人々が連綿と守ってきたのが相馬野馬追いである。江戸期のはじめ、伊達に備えて都を近接する中村に構え背水の陣を敷き、野馬追いの陣立ての度に家人と水盃を交し出陣の禊ぎとし、太平の世にあっても緩めることを慎んだ。有事に備えて死を覚悟することにより、野馬追いを相馬武士の精神鍛錬の場としたのである。

今、旧相馬藩領内は天明以来の危機を迎えている。餓死者の数こそ少ないが、放射能汚染により居住禁止を仕置され、避難を余議なくされている住民の数は10万人とも言われ、その多くが帰還を望むものの現実は厳しい。また半減期が30年とされる放射能物質の除去は方法論さえ妙案がない。しかし住民のそれぞれが希望を失っては、この地方の再生は望むべくもないのだ。

昨年は、宇多郷(相馬市)、北郷(南相馬市鹿島区)、中ノ郷(同、原町区)、小高郷(同、小高区)、標葉郷(シネハと読む。室町期に相馬藩に組み入れられた標葉一族に由来する。現浪江町はじめ双葉郡北部)の五郷のうち宇多郷、北郷以外は物理的に出陣不可能(避難または避難準備区域)だったため、中村妙見神社に供奉する宇多郷と北郷のみで出陣した。震災被害間もない、まだまだ厳しい時期だったが、我われ相馬市としても伝統を絶やさないために力を尽くした。

今年は中ノ郷の仕置が解け、また小高郷も日中出入り御咎め無となったことから、例年通り、中村、太田、小高の三妙見神社の神輿に従い、五郷全軍が出陣する正規の相馬野馬追いが開催される。しかしながら、標葉郷、小高郷の武者たちは県内外に避難しており、自宅からの出陣が出来ない。それでも馬宿と自分の宿舎を借りてでも今年こそは出陣したいという武者たち、標葉郷38騎、小高郷58騎。彼らと、昨年出陣が適わなかった中郷の武者たちに北郷、宇多郷を加えた400余騎を無事に出陣させ、軍勢を統率し、ひいては伝統を継ぐことが殿からの第一の命令だった。
命令の二つ目は、地域にとって復興の狼煙となり、住民に希望を与えること。特に、遠方への避難生活により軍勢を観ることの出来ない人々に対しては、故郷の武者たちの報道を通しての雄姿が力を与えるに違いない。それ故に、標葉、小高の武者たちが困難を排して出陣するのだ。

明日、我われ相馬軍は復興に向かって出陣する。待ち伏せる敵は放射能という悪魔だ。魔性に追われ不安に怯える人々が再び平穏な日々を送れるよう、祖先に倣い、人馬一体となって疾きこと風の如く軍勢を進める可し。魔性に臆する可からず。

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更新日:2019年06月07日