メールマガジンNo.267(2012年3月19日号)HIKOBAE(ひこばえ)プロジェクト

被災直後のこと。
ライフラインが途絶え、食料や医薬品が底を尽きそうになるなか、相馬市内の病院では入院患者を守るために必死の医療が続けられた。加えて放射能被ばくの恐怖。責任感と良心だけを頼りに、医療スタッフたちは患者と病院機能を守った。支援の医師たちが全国から集まってくれたが、どんな名医でも素手では治療が出来ないのだ。薬の供給や、検査体制や、いざという時の入院機能が後ろに控えていないと、せっかくの献身的な医師たちの心意気を活かすことは出来なかった。
南相馬市の病院が次々と患者避難と撤退を始めるなか、相馬市の公的病院も民間病院も、スタッフたちは能く耐えて地域を守ってくれたと思う。被災した翌日から避難所に詰めかけて自発的に被災者のケアをしてくれた相馬市医師会の医師たち、また原発避難の結果、少ない人数ながら泊まり込みで入所者を守った老人施設のスタッフたち。
私が、「急な避難には重症患者や災害弱者への大きなリスクが伴う。被害を最小限に止めるためには、国の命令となれば仕方がないが、市長の判断として避難指示を出さない」と決めたことの是非は、後世の検証に委ねたいと思うが、仮にその判断が正しかったとしても、彼らと市民の頑張りが無かったら耐え切ることが出来なかったと思う。まことに、医療はライフラインである。

映画監督の塩屋俊氏とは、2009年の8月に相馬市民会館で映写会をした「ゼロからの風」以来のお付き合いである。気が合った私たちは、被災前は相馬野馬追いのご当地映画を作る計画を立てていた。ところが地震、津波、原発と三重苦にまみれたため、相馬市での映画製作など夢のような話になってしまった。
原発被害がどこまで拡大するか予想もつかない3月下旬のある日、彼は車一杯に積んだ食料と一緒に、カメラを持って相馬市にやってきた。私や、相馬市民の頑張りを記録したいと言うのだ。私が後世への記録と考えて撮影を許可すると、彼はその活動の拠点を相馬中央病院に置いた。
当時の相馬中央病院はボイラーが倒れ、暖房が利かず、温水も出ない。4階の人工透析室までは水道の水圧が足りず、自衛隊の皆さんに手伝ってもらって、手作業でやっと水を上げるような状態だった。スタッフの中には原発への恐怖で他県に逃げ出す人もいて、残ったスタッフたちが泊まり込みで患者の面倒を見ていた。医師たちや看護師たちが、「避難しなくて良いのか?」という気持ちになったことは何度もあったが、最後は市の方針に従い、歯を食いしばって入院患者と地域医療を守ってくれた。

その時の様子を舞台劇にしたのが「HIKOBAE」である。
第一回目の公演を3月11日ニューヨークはブロードウェイの劇場で、翌12日には国連の小劇場で公開された。公演に伴い相馬市長としてのスピーチを求められたので、西田国連大使に引き続き、各国の大使たちを前に心からの思いを演説をさせてもらった。
相馬市長として、また日本国民として、今日までの世界中からの支援に感謝し、我々は未来を信じながら耐え抜いてきたこと、決して天を恨み人を責めることをしなかったこと、いずれ復興を遂げた相馬市は優しさに溢れた地域になっているだろうこと。

会場からいただいた大きな拍手は、相馬市の復興に対するエールだった。相馬市は世界から力をもらった。
このような機会を作っていただいた塩屋俊氏、および外務省の方々に深謝したい。

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更新日:2019年06月07日