中村城跡
指定面積は、23ヘクタールあります。
中村城は、別名、馬陵城とも呼ばれています。昔、この地は天神山といわれ、中世にはその一部に館が構えられたこともありました。
1611年(慶長16)、相馬利胤が築城して小高城から移り、以後、明治初年に廃されるまで、260年にわたる相馬氏歴代の居城として、藩政の中心となりました。
本丸のまわりには郭(くるわ)、濠(ほり)、溜池(ためいけ)、土塁(どるい)、空濠(からぼり)などをめぐらし、二の丸を東、西、南、北に、三の丸を東、西、北に配し、さらに岡田塁(岩崎塁)、円蔵郭、蓮池などをおき、この城をより堅固なものとしました。この城跡は、築城当時の姿をよく残しており、たいへん貴重です。
今では、馬陵公園として市民から親しまれ、四季を通じて憩いの場となっています。
春は、浜通りを代表する桜の名所です。咲き誇る数百本の桜が訪れる人たちを迎えてくれます。
夏は、一千有余年の歴史と伝統を持つ「相馬野馬追」の舞台となります。甲冑に身を包んだ騎馬武者たちが、城址内の相馬中村神社で出陣式を行います。毎年、この勇壮な光景をひと目見ようと、県内外から多くの観光客が訪れます。
指定の区分など
指定の区別
県 史跡
所有者/管理者
相馬市ほか
所在地
相馬市中村字北町・本町、西山字西山・水沢 地内
指定年月日
昭和30年2月4日
築城されるまで
下総国からの移住
下総国相馬郡を所領していた相馬氏は、文治5年(1189)源頼朝の奥州平定に従軍し、その功績によって奥州行方郡を与えられました。鎌倉時代末に行方郡に移住し、南北朝期以降の動乱のなか、隣接する標葉郡と宇多郡にも勢力を伸ばし領主権を確立していきます。
奥州で最初の居住地となったのは、行方郡太田村(南相馬市原町区)の別所の館でした。約3年後には、そこから南に位置する小高村(南相馬市小高区)に移り、以後3世紀にわたり相馬氏の居城となる小高城を築きました。この間に勢力を広げた相馬氏は、16世紀半ばから半世紀にわたって戦を続けてきた奥州の大藩伊達氏に備えるため、慶長16年に中央に便利な小高から、相馬藩領の北端に近い中村(相馬市中村)の地に築城し移り住みました。これが相馬氏の居城としての中村城の始まりです。
中村城が築かれた地
中村城が築かれた地は、相馬氏が居城を移す前からも城館として利用されていました。古くは、延暦20年(801)坂上田村麻呂の東夷征伐のとき利用したとされ、中世には、源頼朝が奥州平定の帰途、ここの館に宿営したと伝えられています。南北朝期以降もこの地に勢力を持つ者に利用され、城郭として形づくられてきました。
慶長16年の築城は、7月からはじまりその年の12月には小高城から移っています。約半年でほぼ完成したいうこの築城工事は、それまでの城郭を元に再整備・補強・拡張を行ったものといえます。
築城とその後
規模・特徴
中村城は、古くは天神山と呼ばれた自然丘陵を利用して築城されました。
城郭の規模は、東西600メートル・南北650メートル。
本丸と鎮守妙見を祭った妙見曲輪を中心に、二ノ丸、三ノ丸、岡田館を配置し、その間に堀、空掘をめぐらし城郭としての機能を発揮できるようにしました。
城の北方には、蓮池、外堀、土橋などがあることから、北方を意識した堅固な城といわれています。
慶長16年の築城では、本丸の西南隅に天守が建てられました。しかし、寛文10年(1670)5月4日夕刻、落雷のため焼失してしまいます。ときの藩主19代相馬忠胤は、 再建をすれば莫大な費用がかかり、藩士や領民を苦しめることになるため再建をしませんでした。その後の藩主もこれにならい、明治に至るまで再建されることはありませんでした。
相馬氏の居城には、氏神として妙見が祭られ、居城を移すたびに妙見も移されました。太田村別所の館、小高城、中村城でそれぞれ祭られ、現在の太田神社、小高神社、相馬中村神社となりました。
この三社は相馬三妙見と呼ばれています。
寛永20年(1643)に18代相馬義胤が建立した相馬中村神社は、昭和58年(1983)1月に国の重要文化財に指定されています。
明治以後
明治になり、中村城の建物は、新政府の藩政改革でほとんどが取り壊されました。
現在では、外大手一ノ門が唯一残っており、往時の面影を偲ばせます。城郭を形成していた土塁、石垣、堀などは、築城当時の姿を残しており、昭和30年(1955)2月に福島県の史跡として指定されました。
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生涯学習課 文化係
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福島県相馬市中村字北町63-3 市役所庁舎1階
電話番号:0244-37-2278
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更新日:2021年11月01日