主な史跡
宗兵衛堤(富沢)
富沢村に御仕法が実施された嘉永5年(1852年)~安政4年(1857年)に、新しく造られた堤です。相馬地方にはたくさんの堤がありますが、その多くは、御仕法実施のときに、新しく造られたり改築されたものです。
二宮尊徳像(中村:中村城址、市中央公民館前)
城址内の尊徳像は坐像で、昭和38年に二宮尊徳先生銅像復元協賛会が太平洋戦争前にあったところに復元したものです。
中央公民館前の像(写真)は、青年期の尊徳が村回りをする姿を表した「回村之像」で、昭和58年に小田原市の田島享氏から寄贈されたものです。
金蔵院地蔵堂(西山 愛宕山)
二宮尊徳廟の拝殿として慶応2年(1866年)に中村藩により建立されました。須弥壇には尊徳の木像が安置され、慈隆尊師が朝夕読経し、尊徳の冥福を祈ったといわれています。
二宮尊徳墓(西山 愛宕山)
尊徳は安政3年(1856年)10月20日、70歳で今市で没し、如来寺に葬られました。中村藩では遺髪を葬り、安政4年7月墓碑を建立しました。
尊徳の戒名である誠明院功誉報徳中正居士から墓碑は「誠明先生墓」となっています。墓碑銘は、幕臣の筒井肥前守憲政が書いたものです。
慈隆尊師墓(西山 愛宕山)
中村藩の政治顧問であった慈隆尊師は、御仕法のよき理解者であり、事業の推進に大きな役割をはたしました。
明治5年11月24日、東京の相馬邸で亡くなり、遺骸は中村(相馬市)の二宮尊徳の墓の隣に葬られました。
齋藤高行墓(中野 旧蒼龍寺墓地)
富田高慶の甥にあたり二宮四大門人の一人として御仕法の後半を高慶に代って指導しました。晩年の一時期は大原村(南相馬市原町区)に隠遁し大原山人と号しました。
明治27年6月中村(相馬市)で76歳の生涯を終え、蒼龍寺に葬られました。
二宮文墓(中野 旧蒼龍寺墓地)
二宮尊徳の娘で、富田高慶の妻となり、中村(相馬市)に来ました。夫高慶を助け、藩士の子どもたちには手習いを教えました。
出産のため東郷(栃木県)に帰り、そこで亡くなりました。遺髪が婚家に戻り、富田高慶の実家(齋藤家)の菩提寺である蒼龍寺に葬られました。
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更新日:2022年09月20日