相馬の歴史講座 「御仕法」

第1回 二宮尊徳と御仕法

二宮尊徳が考えた二宮仕法のことを相馬中村藩では『御仕法(ごしほう)』と呼びました。今もって相馬市民の心には報徳(ほうとく)精神が生きており、市民憲章にも報徳の教えが謳(うた)われています。今回は、相馬市の大恩人である二宮尊徳さんを紹介します。

二宮尊徳

尊徳「回村之像」 市中央公民館前

尊徳「回村之像」
(市中央公民館前)

薪を背負って本を読んでいる金次郎像※1 でお馴染みの二宮尊徳※2 は、江戸時代後期に活躍した農政家です。相模国足柄上郡栢山村(現神奈川県小田原市)に農家の長男として生まれました。

父母を早くに亡くした尊徳兄弟は、親戚にばらばらに引き取られました。20歳で実家に戻った尊徳は、少しずつ亡き父の田畑を買い戻し、23歳のときに一家を再興しました。

32歳のときには、小田原藩家老服部家の財政を立て直しました。家老が農民に家政再建を任せることは異例ですが、それだけ尊徳の有能ぶりは領内に知れ渡っていました。

36歳のとき小田原藩に取り立てられて武士の身分になった尊徳は、藩主大久保家の分家である宇津家の領地(下野国桜町領/現栃木県二宮町)の復興を任されました。10年に及んだ成果を藩主忠真に報告したところ、「尊徳の仕事は論語の以徳報徳※3 である」と褒められました。

それ以来、二宮仕法と呼ばれていた尊徳が手がける農村復興の方法を報徳仕法とも呼ぶようになりました。

56歳のとき老中水野忠邦に見いだされて幕府に登用された尊徳は、その2年後に日光神領を復興する幕命を受けました。しかし、志半ばにして70歳でその生涯を閉じました。

※1 市内では、中村第一、飯豊、八幡の各小学校に金次郎像があります。金次郎像のイメージから小柄に思われがちですが、成人した二宮尊徳は、身長6尺(182センチメートル)、体重25貫(94キログラム)の体格がありました。

※2 江戸時代の武士は通称と実名の二つの名前を持ちました。金次郎は通称、尊徳は実名です。幕府に登用された翌年、57歳の時に「尊徳(たかのり)」と名乗りましたが、人々が親しみを込めて呼んだ「そんとく先生」の呼び方が定着しました。このシリーズでは、金次郎時代のことであっても、すべて尊徳の名前を用います。

※3 徳をもって徳に報いる生き方のこと。

御仕法

尊徳が考えた「興国安民法」により農村を立て直す方法を二宮仕法(報徳仕法)といいますが、相馬中村藩では、「御仕法」と呼びました。

藩政時代は興国(富国)に重きが置かれ、農民の生活は疎かにされがちでした。しかし尊徳は、農民が元気な生活を送ることが国を盛んにすることだと考え、農民に希望を持った積極的な生き方を教えました。

報徳サミット

尊徳の名声が高まると、各地から農村復興の教えを請うようになりました。二宮仕法を導入し農村の立て直し事業を行った藩は全国に数多くあります。

現在、二宮尊徳や二宮仕法にゆかりの地では、尊徳の教えをまちづくりに活かそうと、毎年持ち回りで「報徳サミット」を開催しています。

昨年は、茨城県筑西市において第13回大会が開催され、相馬市をはじめとする21市町が参加しました。相馬市では平成12年2月19日に第5回大会が開催されました。

写真:尊徳「回村之像」(市中央公民館前)

相馬市中央公民館とスポーツアリーナそうまに囲まれるようにして「報徳公園」と名づけられた小さな公園があります。その一角に、青年期の二宮尊徳が村々を回り歩いている姿を表した「回村之像」があります。昭和58年6月、小田原市在住の方からの寄贈により、旧原町市出身の彫刻家横田七郎氏が制作しました。


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