相馬の歴史講座 「中村藩家臣団の系譜」

第5回 相馬重胤奥州下向後随従諸家

墓石

元亨3年(1323)相馬重胤が奥州に下向当時は、全国的に地侍(じざさむらい)・土豪(どごう)と呼ばれる在地の有力勢力が割拠していた。行方(なめかた)地方も例外ではなく、重胤が行方を自領として治めるためにはこの地侍・土豪を臣従させねばならなかった。

時に標葉郡立野の金沢氏・中郷鷹(高)村の高野勝重・太田村の太田兵衛等が逸早く重胤に臣従した。高野・太田は相謀って近村の士20余人を加えて重胤に従ったという。

中には快く従わない勢力もあったと思われるが、重胤は次第に行方を治める礎を築いていった。

程なく南北朝の動乱となり、重胤も鎌倉で自尽する。

南北朝時代奥州国司北畠顕家に従った黒木氏は、顕家没後相馬の臣となった。当時千倉庄(ちくらのしょう)と呼ばれた後の北郷を領した岩松氏が滅亡後、岩松家の四天といわれた重臣中里・新里・嶋・蒔田の四氏も相馬の臣となった。

室町から戦国時代、相馬高胤(12代)・盛胤(13代)・顕胤(14代)・盛胤(15代)・義胤(16代)にかけて相馬氏は近隣の伊達氏をはじめ芦名・田村・岩城・標葉氏などとの政略・婚姻・攻略を重ねた。それに伴い家臣の去来も多かったが、そのうち相馬の家臣に加わった諸氏を挙げてみたい。

◎大内氏 : 永正17年(1520)伊達稙宗(たねむね)の女(むすめ)、相馬顕胤夫人として米沢より御入輿(ごにゅうよ)(嫁入り)の時、大内源兵衛が奥老として小高に来て以後代々相馬家臣となる。

◎錦織氏 : 伊達稙宗の女、顕胤に御入輿の時、高重が大内源兵衛と共に奥老として小高に来る。以後四家に分かれ相馬家臣となる。

◎森氏 : 先祖は近江国(おうみくに)(滋賀県)森に住み森を姓とした。大永年間(1521〜1527)相馬顕胤に仕え、後二家に分かれる。

◎日下石氏 : 岩城氏の一族、大永年中舎弟隆(たかよし)と共に相馬に来て顕胤に仕える。日下石村に住み、日下石を姓とする。永禄6年(1563)草野城代の草野式部が盛胤に反逆の時、式部に味方し流浪、後に許されて戻る。後に神谷・大曲氏となる。

◎猪苗代氏 : 将軍足利義政に仕え連歌の宗匠であった猪苗代兼載(けんさい)の孫千佐が天文5年(1536)顕胤に招かれ、代々相馬家臣となる。

◎吉田氏 : 天文年間(1532〜1554)安達小浜城主四本松尚義(ひさよし)に属し、天文13年(1544)相馬顕胤三春出陣の時より相馬に仕える。江戸末期の北標葉・中郷・北郷代官吉田作内(さない)の祖。

◎藤田氏 : 伊達氏一門で伊達郡藤田城主。天文年間兄の掛田城主掛田俊宗が伊達晴宗に滅ぼされた時、相馬盛胤夫人が姉であった縁によって相馬に逃れた。草野城代の後馬場野に住み五百石を賜わった。後二家に分かれた。

◎遠藤・中嶋氏 : 盛胤夫人掛田義宗娘が御入輿の時随従し、以後相馬家臣となる。

◎手土・今村氏 : 掛田俊宗没落の時相馬に来て盛胤に仕え、代々相馬家臣となる。

■写真:天正年中 藤田城落城の際、一基のみ相馬に持参した墓石と伝えられる。(南相馬市原町区 岩屋寺にある)

         執筆:藤原一良氏(相馬市史編さん近世部会調査執筆員)

 


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