相馬の歴史講座 「中村藩家臣団の系譜」

第4回 奥州下向随従諸氏

元亨3年(1323)※1、相馬孫五郎重胤は下総国相馬を離れ奥州行方(なめかた)、現在の南相馬市に移住した。いわゆる奥州下向といわれ、以後明治の廃藩置県に至るまで五百数十年にわたる奥州相馬統治の始まりである。相馬氏は下総相馬を本拠としていたが、文治5年(1189)源頼朝の平泉征伐に従い恩賞として与えられた行方郡も領地としていた。

しかし治安が乱れ、十数年後南北朝の動乱となる時代に遠隔の地行方を支配することは困難となり、重胤が奥州に下向することになったのである。重胤は一族郎従83騎を従えて行方に移住と伝えられている(御家給人根元記・他)。その従者は一族岡田小次郎胤盛・泉五郎胤康・堀内掃部頭(かもんのかみ)常清・伊奈五郎有村・西八郎胤利・大悲山(だいひさ)次郎兵衛朝胤・累代の家臣門馬五郎胤直・木幡周防守(すおうのかみ)範清・同蔵人(くらんど)盛清・同紀伊守(きいのかみ)胤清・同三郎左衛門安清・同四郎左衛門兼清・須江備中(すえびっちゅう)時胤・青田孫左衛門祐胤・茅原越中(えっちゅう)・猿島豊前(ぶぜん)・牛来玄蕃(げんば)・北・般若・遠藤・荒・今野・薩摩・筒戸・増尾・岡部・伏見などと記されているが、83騎中の他は記されていない。

「衆臣家譜」に先祖が『元亨三年重胤公奥州下向に従う』と記された諸家を拾うと右の他に西内・原・草野・大井・水谷・紺野・村田・宇佐見・蝦原・江井・豊田・西山・但野の諸家があるが、この13家を加えても83騎の半数にも及ばない。他の40余騎は右にあげた諸家の一族郎党かと思われる。「衆臣家譜」は江戸時代末に編さんされた城下士(御家中)の系譜集なので、在郷給人郷士の系譜はごく一部しか載っていない。重胤の下向に従った83騎の中には在郷給人郷士やすでに断絶した家の先祖も含まれている。ともあれ奥州下向に従った家々は、相馬家にとって下総在住以来の旧臣で、徳川家の三河以来譜代の家々と同じであった。中でも岡田・堀内・泉の三家は御一家と称され相馬家一門とされた。門馬・青田・須江・木幡は四天王と称され多数の分流(分家)を出した。中でも門馬は分流が多く、家紋の木瓜(もっこう)をもじって「門馬もっこでかつぎ出せ」といわれるほど多家に分れた。

青田・木幡も分流が多い。因みに今日電話帳を開くと、門馬・青田・木幡が多いのは旧相馬領の特徴である。

多くの分流を出し繁栄もした一方、度々の戦いで討死や絶家断絶も多かった。青田氏との抗争に敗(やぶ)れ仙台領に逃れた木幡主水盛清の遺児が、仙台藩の重臣奥山大学であるということもあった。

茅原・猿島などは断絶した記録があり、幕末までどこにも家名が認められない家々もあるが、奥州下向の諸家の多くは在郷給人も含めて中村藩家臣団の中核を成した。

※1 元亨2年(1322)ともいわれている。

執筆:藤原一良氏(相馬市史編さん近世部会調査執筆員)

 


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