相馬の歴史講座 「中村藩家臣団の系譜」

第3回 標葉系諸家

旧陸前浜街道の熊川家入口周辺

標葉氏は岩城氏・相馬氏と同じ桓武平氏で、中世初期から岩城氏と相馬氏に挟まれながら現在の双葉郡大熊町・双葉町・浪江町・葛尾村を支配していた。奇しくも現在原発事故によって居住の目途すら立たず、避難を余儀なくされている地域である。相馬氏とは長年抗争を繰り返したが、明応元年(1492)標葉清隆・隆成父子の時一族家臣の寝返りもあって相馬盛胤に滅ぼされた。以後、標葉郡は相馬領となった。戦国大名相馬氏が武力によって勝ち取ったのはこの標葉郡だけである。標葉氏の一族家臣には六旗(井戸川・山田・下浦・熊・上野・小丸)、七人衆(室原・郡山・樋渡(ひわたし)・苅宿・熊川・上浦・牛渡(うしわた))や泉田・小野田・齋藤などの諸氏が居り、その多くは、後相馬に属することになった。中でも泉田氏は泉田舘主として泉田を姓とした標葉の一族であったが、当主隆直が叛きその策略によって勝利を得たことを賞し、相馬盛胤は泉田氏を相馬一族に準じ「胤」の一字と繋馬の紋を賜り標葉郡の旗頭と為し、子々孫々相馬一家に列した。

熊川氏も泉田氏の祖標葉隆光の弟隆重を祖とし、熊川舘主となって熊川を姓とした標葉一族である。標葉滅亡後も熊川舘主であったが、慶長7年(1602)熊川長重の代、徳川家康による相馬改易の時熊川舘を退居した。

本領安堵後新知442石を賜り江戸城石垣普請の大奉行職を果たし、大坂冬夏の陣などに従った。八代長春は相馬利胤に従い将軍秀忠の上洛に供奉。元和6年(1620)草野城代岡田兵庫胤景(長春の舅)が嗣子無く病没したため胤景の知行1,200石を賜り、自分知行と合わせて1,642石を領し、老臣の列に加わった。

以後代々重臣として藩政の重責を担った。他の標葉旧臣のうち七人衆の一人牛渡氏は、主家を滅ぼした相馬に仕えることを潔しとせず岩城に身を寄せ、相馬顕胤の時相馬領の富岡城夜襲に加わった牛渡盛清が戦死。その子宗清は出家したが法螺を好んで昼夜吹くうちに妙技を修得した。これを開いた顕胤が宗清を還俗させ陣螺の秘事を宗清に相伝し、以後牛渡氏は相馬に仕えて陣螺の師範となった。

六旗のうち上野・井戸川氏は砲術師範、七人衆の一人室原氏は槍術師範など相馬の家中士として仕えながら一芸を伝える役も果たした。

他にも熊川氏から分かれ川勝氏を称した家やそれぞれの分流となった標葉系家臣は在郷給人・郷士を含めるとここにあげきれない。

標葉氏は南北朝時代、南朝の敗色が濃厚となるまで北朝方の岩城・相馬の間でひとり南朝方として奮闘した。

しかし、一族の中には北朝に転ずる者もいて、結束は乱れていた。南北朝合一から100年後の標葉氏の滅亡は、それと無縁であったろうか。

(写真:旧陸前浜街道の熊川家入口周辺)

執筆:藤原一良氏(相馬市史編さん近世部会調査執筆員)

 


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