相馬の歴史講座 「中村藩家臣団の系譜」

第2回 土屋家諸家

慶安4年跡継ぎがないまゝ亡くなった18代相馬義胤の跡を継いだのが、上総久留里藩主土屋民部少輔利直の二男式部直方(勝胤のち忠胤)であった。それまで跡継ぎがないまゝ大名が亡くなった場合、その家は断絶となるのが例とされた。それを避けるための末期養子も認められなかったが、勝胤が初めて認められ、末期養子の最初といわれる。土屋家は元武田家の遺臣で、徳川家康に仕えて大名となったが、勝胤の兄頼直の代に改易となり旗本となった。相馬家を継いだ勝胤は、当時諸大名中の十善人の第一とされた名君で、近世大名としての相馬家のために数多の施策を行った。その勝胤に随って久留里から移り中村藩家臣となったのが都甲・岡部・小田切・志賀・軍司・時(年偏に鳥)田・飯塚の諸家である。勝胤が相馬家に入る以前に池田・野坂・岡・清水家が土屋家より中村藩に仕えて居り、更に土屋家改易後に浪人となった家老鳶家が中村藩士となり、鳶家より分かれた植松家も中村藩士となっている。

池田家は名家老図書胤直を出した家で六百石の大身、祖は笠井肥後守といい武田信玄・勝頼に仕え度々軍忠をあげた武将であった。志賀家は作家志賀直哉を生んだ家で、祖父直道の代まで二百石、現相馬高校の裏門辺りに屋敷があった。直道については、直哉の小説「祖父」に詳しい。岡部・軍司家については、荒井白石の自伝「折たく柴の記」に記されている。岡部については「・・・甲斐の武田の家にて岡部丹波守と聞えし人の孫にて・・・岡部求女(ママ)といひし。其嫡流の子孫は奥の相馬の家にあり。」とある。代々五百石の大身で家老職を務める重臣であった。軍司については「折たく柴の記」に『戸部(土屋利直のこと)の二男にておはせし人の、陸奥の相馬の家をつがれし時に、めしぐせられてかしこにぞさふらはれける。成人のゝちは、弥一右衛門といふ。我父(白石の父)土屋の家をさり給ひし後には、かの人の許より、老やしなひ給ふべきほどの料をばおくられたり。・・・』とある。つまり勝胤が相馬家を継ぐ際に随った家臣の一人軍司弥一右衛門は、白石誕生以前、新井家の養子となったが、白石が誕生後軍司家に戻っていた。勝胤が相馬家を継ぎ、弥一右衛門は相馬の家臣となっても、土屋家を去って禄を失った白石の父に暮らしの資を送っていたというのである。軍司家は代々弥一右衛門を襲名、百三十四石の大身であった。

都甲・小田切・時田・岡・飯塚・野坂、各百石以上の大身であった。江戸時代にこのように多数の臣が召し連れられ、大身として抱えられたことは、勝胤の場合を除いて相馬にはないことであった。久留里藩土屋家はその後改易となったが、最後の藩主頼直の子達直は三千石の旗本として家名を保った。久留里の家老であった鳶家も元武田の家臣であったが、藩改易後中村藩士となった。相馬藩年表(相馬市史1巻 通史編)には、元禄6年(1693)2月9日「久留里の浪人鳶惣右衛門を召し抱える」とある。

執筆:藤原一良氏(相馬市史編さん近世部会調査執筆員)

 


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