相馬の歴史講座 「相馬中村の城下町を探る」

第12回 『吉田屋源兵衛覚日記』の記す商家を辿る(その2)

『明和五年図』(『相馬の歴史講座』第6号「田町枡形と中村商家を探る」の屋敷割図を参照)は南(みなん)町の中程に水路巾一間の堀川を描き、石橋の東側は熊野堂町や鋳物町とも呼ばれていました。寛政5年(1793)と天保元年(1830)の大火で町屋は焼失し、名は宇多川町と変わり両側一間を拡幅し、道巾は六間(約10.8m)となりました。

鈴木家は北側の堀際から東へ三軒目の「まるしょう」吉田屋で、鈴木庄左衛門嘉治代に塩と五十集(いさば)と検断(けんだ)を継ぎ、信達領(しんたつりょう)への販路を拓き身代を築きました。享和3年(1803)から天保3年(1832)まで上納金2,400両を畳み置いて藩の台所を支え、天保12年(1841)に孫重憙(重義)代の加増で蔵取り230石の代々城下並侍となりました。

表向きは酒造と質屋を商い、「かぎしょう」嘉助と「ひししょう」愛沢庄八を屋代とする支店があり、大町の菅野屋彦惣店も傘下に入れ大店を構えました。

図1は明治5年(1872)8月に源兵衛が吉田屋を守るべく奔走し、町役所に届け出た屋敷調べの写しで、間尺六尺二寸(約1.86m)で間口十三間半(約25.11m)と奥行十五間(約27.9m)になっていました。

鉄砲張町側(現:興仁寺入口付近より北側130mほど)は天保9年(1838)4月に継嗣庸重(けいしつねしげ)が菊池屋利助店を買い受け、斉藤傳左衛門店と替地にした半軒第で、文政2年(1819)に嘉治が庄次郎へ五十石を分け、別家の「かくまる」吉田屋鈴木庄右衛門重熈(しげひろ)店となりました。

北角の七間(約12.6m)は天保6年(1835)春に溜池を掘り、嘉永元年(1848)6月には大町側を埋めて坂元屋治左衛門が入り、元治元年(1864)12月に宇多川町側は庄右衛門の永代使用が許され、石屋根土蔵造りの新店を並べました。

図2は大町の佐藤屋新助の出店と伊勢屋徳左衛門店との地境を記した屋敷図(赤枠)で、源兵衛は全てを万調べ日記に残してきました。
「かくまる」吉田屋鈴木庄右衛門重熈店は質屋と呉服、太物(ふともの)を商う傍ら「まるしょう」吉田屋の出資で原釜揚りの荒鉄と五十集荷を取引しました。

着船の廻状(かいじょう)に、源兵衛は暁に和田の森を抜けて笠岩へ下り、送り荷の浮船賃と蔵入賃、売値と利潤を七つ玉算盤で弾き出し陸荷用の縄代(なわだい)と駄賃、半紙(関税)を仕切状(しきりじょう)にまとめました。

安政3年(1856)10月に庄左衛門は「十ヶ年造船趣意書」を藩庁に献策(けんさく)し、砂糖などの専売を願い出ました。同4年3月に江戸霊岸島の丸屋清七が招かれ、吉野屋横山与七店で勘定方と造船次第を熟談し、藩庁の評議に至りました。同5年3月に新造船己百丸が回船すると、江戸の利益一割に「海上一割」を算定して海難に備え、執政(老中)熊川兵庫の殖産興業策を懸命に支える忠臣となりました。

源兵衛は『覚日記』に、三間半の旧店から両向かいの商家を記しています。安政5年(1858)8月11日早朝のドナチ彗星は、横口から丑寅方角(北東方)の鉄砲屋市田庄司右衛門店の屋根の上に見え、北隣りは、文久4年(1864)6月に砂子田中町の斉藤五藤太の下役で、南部領鍬ヶ崎へ出張した仙台屋太郎右衛門の店となりました。また、南側は、万延2年7月に湯殿山権現尊御使(ゆどのさんごんげんそんおつかい)の天狗の木太刀を店先に飾った旅籠(はたご)永井屋清助店で、池田屋藤兵衛店と堺屋が続きました。

南向かいは、万延元年7月の洪水で、町番所から藤屋弥寿蔵店の軒下まで濁流(だくりゅう)が迫り、また、元治元年8月の狼藉(ろうぜき)一件を「今晩八っ頃、向ノ藤屋酉蔵殿宅表口ヘ帯刀差(たいとうさし)五人ト相見え、南ノ方遣戸(やりど)ノ方ヘ竹ノ尺曲(しゃくきょく)之様成ルものヲ差入、無理ニ此戸ヲ明路ゝと声ヲかけ候ニ付家内のもの驚、裏口より吉原ヘ迯(にげ)、夫より増田屋十兵衛殿ヲ起こし、斉藤軍司も起し、彼是(かれこれ)隣家迄騒立(さわぎたて)候〜」と記し、吉原武右衛門他三家の位置を伝えています。

吉田屋の西並びは、安政5年1月24日に「五泉屋治左衛門家屋敷内ノ後藤稲荷社大破ニ付〜「かくまる」吉田屋鈴木庄右衛門重熈店〜「まるしょう」吉田屋より二朱也出」とあり、専光院境内に稲荷小祠と五泉屋がありました。

その向かいが会津屋佐藤鉄蔵店で酒造と質屋を商い、明治14年7月に斉藤軍司屋敷地を買い入れて立谷初右衛門跡地へ転居し、更に、地続きの牢舎跡地へ清酒と味噌醤油の醸造蔵を連ねました。

図3は、店位置を赤枠にして前後に『弘化二年写図』(享保中)と『明和五年図』に、『明治十五年図』を並記した棟割目安になります。他の西村屋卯右衛門、大町の五十集仲浜屋政右衛門、田町の飛脚屋青田彦兵衛等の位置は『明治廿一年戸籍帳』に記されています。

※五十集(いさば):魚市場
※継嗣(けいし):あとつぎ
※熟談(じゅくだん):よく相談すること
※回船(かいせん):貨物の運搬等を業とすること
※太物(ふともの):綿織物・麻織物など太い糸の織物をさす
※廻状(かいじょう):順次にまわして読む文書
※駄賃:荷物を運ぶ料金
※献策(けんさく):計画や案などを申し上げること
※遣戸(やりど):左右にあけたてする戸、引戸

図1:明治五年八月鈴木重栄邸略図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

明治五年八月鈴木重栄邸略図

図2:慶応元年鉄砲張町略図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

慶応元年鉄砲張町略図

図3:慶応元年宇多川町棟割経緯目安

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

慶応元年宇多川町棟割経緯目安

 

執筆:南部孝之(相馬郷土研究会)


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