相馬の歴史講座 「相馬中村の城下町を探る」

第10回 『吉田屋源兵衛覚日記』の記す城下を辿る(その1)

『吉田屋源兵衛覚日記』は、宇多川町の 「かくまる」吉田屋(表2、18番)、鈴木庄右衛門の屋代(やだい)源兵衛が記した安政3年から明治12年までの万調(よろずしらべ)日記で、原釜揚りの御趣法荷駄と城下の有り様を伝えており大変興味深いものです。

安政5年のドナチ彗星は、『同九月一日』に「鳥の尾の如く右に至りて上へ行く事数十丈、其の色薄赤く光りて冷たし、真西よりは少敷北により戌の方より出現」と記しており、天明山上空に楕円の二次曲線でコマと尾のガス雲の下に、中村町を鳥瞰図で描いたのが図1 です。絵図は、同慶寺(現:蒼龍寺の墓地)と西光寺(現:興仁寺)から仏立寺の大銀杏、歓喜山と愛宕神社の位置を捉えており、「コヨセン寺」は光善寺で木立は桜小路の杉並木になると考えられます。『同十一月十一日』の「今暁七つ過より無類の大風〜桜小路土手ノ杉折レ、立谷十左衛門様酒造蔵へ掛り大ニ蔵破れ候」は、古木が桜濠を越え道甫之隅の十左衛門蔵(現:ハイカラ屋商店)へ倒れたと記しており、御宿第(おんしゅくだい)の位置を裏付けています。日記では、屋号を略し商標で取引を表すことがあり、四町内他210店の屋号を記しており、表2 他の商標を伝えています。本陣役の立谷十左衛門店は 「まるいち」(表2、6番)の商標で清酒仲間となり、量り売りは吉野屋に委ねていました。

文久2年10月14日の上町火災は、罹災図を添えて「今晩8つ時少々前、上町東側渡部屋金助抱屋敷の借家綿打喜次郎宅より出火、東側の南は渡部屋文蔵抱屋敷の倉ノ市住居迄にて止り、北は遠藤喜平次抱屋敷の住ノ市居にて止り、西側北は池田屋藤兵衛屋敷にて止り、南は岩城屋平三郎抱屋敷綿打勇次住居にて止」と記しています。渡辺屋は田町の豪商「三つ星」(表2、15番)渡辺平八店で、家代金助の雇う綿打職人の喜次郎宅から出火し、木葉葺き石屋根の平屋造りへ瞬く間に燃え広がり、上町と西横町の屋敷持九軒と借家を合わせ22戸が焼失しました。

図3 の赤枠が罹災箇所になります。この前後に『弘化二年写図』(享保中)と『明和五年図』に『明治十五年図』を併記して棟割目安にすると、『明和図』を継承した間尺一間6尺3寸(又は2寸)の半間第の家並みになります。また、西側17間半と東側16間半の奥行があり、濠際と裏通堀際には土手代(どてしろ)の除地があったことがわかります。

屋敷持の遠藤喜平次は田町の遠州屋、横山与七は大町の吉野屋(表2、12番)となり、共に質屋仲間の商売敵が御趣法荷駄を商い、上町に土蔵を建てしのぎを削っていました。尚、店位置は幕末の絵図はなく寺社と本陣、検断と大店を描く図4 の『明和五年図』上に、『奥相志』と『覚日記』の記述を考証することになり、田町西側南寄りの「三半、喜平太」と大町の田町口「十半、横山庄兵衛」の棟割に該当します。明治維新後に遠州屋は田町検断跡地を落札し、吉野屋跡地(現:東邦銀行敷地内)は『明治廿年地籍帳』では宇多・行方郡警察署となりました。城下一の身代を誇った三軒第の渡辺屋に関する明確な伝えはありませんが、『明治十五年宇多郡誌』には「四等郵便局、田町に在り明治五年七月、士族渡邊前綱(ちかつな:平八)宅に設置」と記されており、『地籍帳』の「字田町44〜46番地、渡部藤八」の三棟割に当たると考えられます。御趣法商人は戊辰の役で藩から借上金を強制され軒並み零落し、同6年11月と同14年2月の中村大火で町役所に収められた明治5年8月の屋敷持間尺改の「屋敷帳」は焼失してしまい、明確にすることはできません。

※零落:おちぶれてしまうこと。

図1:中村町鳥瞰図

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図1

表2:覚日記に記す四町商家の商標

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表2

図3:文久二年 上町棟割目安

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図3

図4:明和五年中村城下町地図

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図4

 

執筆:南部孝之(相馬郷土研究会)


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