相馬の歴史講座 「相馬中村の城下町を探る」

第9回 鷹巣町から柏葉町の道筋を辿る

開府以前の中村は清水から長友に宇多川筋があり、今田村大竹(現:今田字大竹)から竹之内後(蒼龍寺付近にあった地名)へ群生した竹林から大竹之庄と呼ばれてきました。開府後の川筋は『慶安元年中村城絵図』では南二之丸南縁の堀割に描いております。

屋敷割は川筋を南に廻して御堀通へ堀川町を並べ、南方に一間半幅の中小路と西小路を拓き両側二十五間の武家町を拓きました。また、新馬場に鷹部屋町を並べて新馬場横町と鷹巣東横町でつなぎ西街道口の下之渡(現在の清水橋の東に掛けられていた橋)へ通しました。鷹巣前から天水下を領した泉藤右衛門は元和中(1615〜1623)に御堀通西端の南二之丸郭際へ入り、跡地は安養寺門前へ二間幅の鷹巣町と一間半幅の柏葉町を並べ上士第(じょうしやしき)に分けました。こうして曲田境の田畑から鷹巣前の竹藪がことごとく武家屋敷に変わり、顕胤公から盛胤、義胤両公に勤仕し伊達氏との合戦に一命を抛(なげう)った累代給人の故郷となりました。

昌胤公代の元禄11年(1698)に、鷹巣山の大蓮院を清水向に移して長松寺の伽藍が造営され、「不許葷酒肉入山門」(くんしゅにくさんもんにいるをゆるさず)を刻む戒壇石の入口から御成門に至る参道は往時のままに残っています。同12年(1699)に安養寺は火之沢(現:西山字水沢)に移り、跡地へ栗崎友之丞と武野重兵衛が入り、愛宕下から下川原町の原安兵衛邸裏手の川縁へ堤防が築かれました。この頃の城下が『元禄御城下図』に描かれ、昌胤公は「奥州中村」を「自今奥州相馬中村与可称之」(じこんおうしゅうそうまなかむらとこれをしょうすべき)と命じました。また、元和九年(1623)に長谷堂山(現:愛宕山)の松林に愛宕神祠を遷座し、正徳2年(1712)に東麓へ長松寺の隠山和尚が金蔵院円通庵を開きました。ここは安政3年(1856)に日光山浄土院主の慈隆尊師が招かれて静慮庵となり、石段が誠明院先生墓地へも続いています。

図1は「明治二十年中村字川原町図」と「同西山字表西山図」の電子合成図で、図2は一筆区画に『奥相志』の御家中を並べた略図になります。屋敷割は『元禄十五年図』の地割で、新馬場口の野坂源太夫邸、西小路の佐藤勘兵衛邸は『奥相志』が同位置に記し、同様に、鷹巣町北側十一割は西の末永源右衛門邸から東の富沢武兵衛邸は同半左衛門と同武兵衛の位置に対応する。柏葉町北側十一割では木崎源右衛門と西郡弥次右衛門が同連(つらね)と同良蔵に対応し、元禄から幕末まで同位置に家屋敷があったことがわかります。

御家中累代の役職は『衆臣系譜』に記されており、『元禄図』と『元文図』で屋敷替がわかります。大浦庄右衛門は大身の大手前から、享保元年(1716)の霊山観音堂取壊一件で老職召放の上、百石収公(しゅうこう)され並身の堀川町に移り、跡地に岡部五郎左衛門が入りました。新馬場の二百石斉藤馬之助は享保九年(1724)に水戸道中の下僕刃傷で改易となり、継嗣(けいし)三大夫が扶持(ふち)取で上向町の下士に列しました。鷹巣町二百石岸平兵衛は享保元年に町奉行勤役中の過失で改易され、延享元年(1744)に継嗣藤右衛門が三十石の返知で上川原町へ家屋替となりました。また、同町二百石福島三郎右衛門は元禄10年の護国寺普請勤役中の刃傷で横死(おうし)し、寛保元年(1741)に継嗣福春の過失で百石収公となり砂子田の泉長右衛門屋敷跡地に入り並身となりました。また、幕末の様子は『熊川家文書』に記され、御家中の息づかいを感ずることができます。

※戒壇石:僧に戒(いましめ)を授けるために設けた石壇。
※収公:領地などを取り上げること。没収。
※継嗣:あとつぎ。後継者。
※扶持:たすけること。
※横死:不慮の死。
※『衆臣家譜』(相馬市史資料集 特別編):現在巻13まで刊行されている。
※『旧相馬中村藩家老熊川家文書』(相馬市歴史民俗資料館資料叢書):現在第21葺まで刊行されている。

図1:磐城国宇多郡中村字限図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

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図2:慶応元年 相馬中村城南屋敷割略図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

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執筆:南部孝之(相馬郷土研究会)


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