相馬の歴史講座 「相馬中村の城下町を探る」

第7回 紀行文から見た城下町(その2)

天明8年(1788)、中村城下を訪れた幕府の巡見使古川古松軒(ふるかわこしょうけん)は、その様相を治に居て乱を忘れない武備が整った、また、町並もよく賑わいのある町とその著書で述べていることを前回触れた。今回は同じ近世の末頃、東海道を経て城下中村に立ち寄った旅人を紹介してみたい。

文政10年(1827)、陸奥の温泉を巡った紀行文『浴陸奥温泉記』を著した小宮山楓軒(こみやまふうけん)。彼は水戸藩士の農政家で彰考館(水戸光圀が『大日本史』編纂のため設立した編纂局)に勤務した碩学である。

楓軒は盛夏の5月水戸を出立、海岸沿いの街道を北上し小高に至り、次宿駅原町では野馬追を心ゆくまで見物し、祭りの様相から群衆や物売りまでよく観察し具にそれらを記し、雨の中城下に入る。まずは宇水(宇多川)の流れに板橋が架かっており、それを渡っての第一の印象はその繁栄振りで、土浦にそして江戸は日本橋にも似通っていると大いに褒めている。信じて良いのであろうか。城下の様子も記しているので、昔を偲ぶためにもそれを紹介しておこう。

「町家ハ木羽葺(こばふき)石ヲ載(のせ)タリ」とあり、民謡「壁ぬり甚句」の「相馬中村は石屋根ばかり、かわらないので人が好く」と謡われたような石屋根が十町ほど続いていたというが、他所に見られることを後にも述べるが「石屋根」は中村を特色づけるものであった。さらに楓軒は魚屋が多く、相馬焼を商う店、質屋の看板を掲げている大店などが続き、ここでも「ヨキ町ナリ」といい、大町の天野屋(現在の東邦銀行辺り)に宿をとる。しかし、楓軒は旅装を解かず町内巡りを始める。

「杉垣ガコイニテ足軽ニモアルベキト思フ者ノ居ル所ヲ過ギ、二三町ユケバ城隍(じょうこう)(お堀)ノ傍ニ出タリ」とあり、天野屋から北に向かってお小人街(現新町辺り)を通り、更に西の現柳橋辺りの外堀に出たというのであろうか。「(堀の)東ニハ士宅アリ。城ニハ不明(あかず)門アリ」とあり、カネボウ跡地から南に歩き、不開門を右手に見て大手前に出ている。「東の士宅」(スポーツアリーナそうま界隈)は城下絵図からも大身の上級士が軒を連ねており、それを指すものであろう。その士屋敷の様子を楓軒は、「コノ辺ハ士宅皆ヨロシク、四ッ足門、屏ガマエ、居宅銚子木羽(きょたくちょうしこば)ニフキ石ヲ載セタリ。唐破風(からはふ)ノ玄関ナドモ見ユ」と、士屋敷は四ッ足門構えで塀を廻らし石屋根葺であること、それに一部であろうが唐破風の立派な玄関が見えると述べ、そのたたずまいのよさに驚嘆している。

野馬追が終って間もないからだろうが、「何レモ門ニ注連縄(しめなわ)ヲ張リ」とある。これは野馬追は妙見社の祭礼であり、各家の門には注連縄を張り、清浄なハレの日の行事として、すべての人が祭りに参加したことが分る。楓軒は他国の人故城の中に入ることができず、外から眺めて「城中ニモ指物ノ如キ旗立テ見ユルハ、城内ニモ妙見ノ社アリテコレヲ祭レルナルベシ」と、城内に祭り旗が立っているのは妙見社があるからだろうと、野馬追の余韻に浸っている。遠目であろうか、城壁に「矢炮(づつ)ノザマ」を塗り込めた跡も認め、惣じて「城モヨクカマエ、城下モ賑ハイテ」と城構えもよく、城下の繁盛振りに目を見張り、「磐城平ト伯仲ナルベク見ユ」と磐城平と互格と評している。

楓軒は中村を発ち槍町、黒木、大坪、椎木を経て伊達領駒ヶ峯に向う。藩領を去るに当って相馬は「頗ル大国」で「農兵二千ヲ養フ、他ノ諸侯ノ及ブ所ニアラザルベシ」と、藩士(府本給人、在郷給人)ニ千余を擁し他藩の及ぶところではないといい、万一事ある時には「天下ノ用ヲ成スベキ藩国ナリ」と天下危急存亡の時には、国家に役立つ藩であると楓軒も高く評価している。南奥の名藩と称された所以であろう。

※四ッ足門:親柱の前後に各々二本の控え柱を設けた門のこと。
※唐破風:玄関などの屋根に曲線状につくった山形の装飾板。

写真:カネボウ跡地付近から南を望む
(スポーツアリーナそうま、市民会館付近は、大身の屋敷が軒を連ねていた)

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執筆:大迫徳行(相馬市文化財保護審議会会長)


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