相馬の歴史講座 「相馬中村の城下町を探る」

第6回 田町枡形と中村商家を探る

中村四町は桜濠の東側に造られた商家の町並みで、東街道に続く大町と田町、これに並行するように宇多川町(南町)と上町の両側十五間幅の家並みを指し、北町片町(きたまちかたまち)をも含めました。町絵図には、明和5年(1768)の「中村城下町人町屋敷地図(なかむらじょうかちょうにんまちやしきちず)」と文久2年(1862)の写図があります。明和の図は、詳細な間口三間半半軒第(やしき)の棟割と横道幅を記し、大町、田町、御小人町(おこびとまち)(現:新町の一部)の三町を加え本陣と検断(けんだん)、豪商の変遷を伝えています。また、文久写図は、宇多川町の豪商、三代目佐藤鉄蔵の庄多郎が写した絵図とみられ、尊胤(たかたね)公代の享保中(1716〜1735)の道路間尺と間口七間桁十五間の一軒第(やしき)棟割と町口八門を描いています。図1は、明治20年7月の字宇多川町図・字大町図へ字田町図・字上町図を電子合成した字限図になり、二重の角道を北町に通し裏通堀の形状まで明和図を裏付け、図2はその棟割に『吉田屋日記』の伝える屋号を加えた略図です。

大町の検断は問屋場で制札(せいさつ)があり、裏の町会所へ町長(まちおさ)一人、検断二人、町内十人役が詰めて町政を司っていました。問屋役は宇多川町の斉藤軍司が勘定方下役(かんじょうがたしたやく)で先触(さきぶれ)の人馬を差配し、原釜に荷揚げされた鯡や砂糖他の宰領荷駄(さいりょうにだ)を継ぎ立てていました。郷廻り(ごうまわり)配下の検断役は、上町の春臼屋渡部林左衛門が苗字帯刀を許され、目明(めあかし)藤次郎と手付(てつけ)は六尺の十手を差し賭博(とばく)と刃傷沙汰(にんじょうざた)を取り締まっていました。『奥相志』には、文政元年5月の町内戸数は395戸、安政5年の市屋人員(いちやじんいん)は1,529人と記しています。質屋は10軒あり、酒造仲間は6軒で、年の暮れに評定所の利き酒で番付を決めていました。西光寺(さいこうじ)の薬師尊、圓福寺(えんふくじ)の普賢尊、五大院の道祖神、上町の妙見尊が四町の守護尊となり御日待(おひまち)をした所となります。

弘化二年の御仕法発業から普請場が増え、安政中は大町の芳野屋横山与七持の千石積・永保丸(えいほまる)と、宇多川町の□○(かくまる)吉田屋鈴木庄右衛門持の八百石積己千丸(きせんまる)、己百丸(きひゃくまる)の御趣法荷駄が上町蔵と泉田町蔵に運ばれ、信達商人の注文に応じ黒木・菅谷・栃窪の検断を経て駄送され中村は開府以来の好景気に沸いていました。

御宿第(やしき)は本陣をいいます。元文中(1736〜1740)には大町角の豪商鹿島屋、佐藤甚五右衛門第(やしき)にあり、明和中(1764〜1771)には立谷十左衛門が道甫之隅(どうほのすみ)の平野屋忠兵衛の名跡を継いで本陣となり、大町の立谷平左衛門第(やしき)も巡見使の御用宿を勤めました。

町門は、町人の武家町への通行を規制したもので、冠木門(かぶきもん)に潜り戸があり、町給人が番小屋に詰めていました。道甫之隅門は桜濠向きに枡形の地面(じづら)を造り、谷町(たにまち)口と御徒士町(おかちまち)口、北町口は筋違いに門を構えていました。田町の枡形(ますがた)は、伊達氏に備えた城郭の形状となります。古木が繁る北濠土塁は幅四間高五尺の段構えで裏道があり、北堀は幅三間高五尺で松立の土塁となり、この間を幅三間の土手道で曲田の角へ渡しました。宮城屋脇と田代清次右衛門脇は幅一間半高五尺の土塁を築き、枡形面は二尺の丸石組が駒焼場に続いていたと考えられます。

※市屋人員:町に住んでいる人の数。
※冠木門:二本の柱の上部に一本の横木をわたすだけで、屋根のない門。
※制札:禁令・法規などをしるした立てふだ。

図1:磐城國宇多郡中村 一番〜四番之図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

図2:慶応元年 相馬中村城下迎町屋敷割・棟割略図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

執筆:相馬郷土研究会


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