相馬の歴史講座 「相馬中村の城下町を探る」

第5回 鍛冶町枡形と迎町の町並み

 向(迎)(むかい)町は、宇多川の南側につくられた町並みをいいます。鍛冶町(かじまち)と大工町、武家屋敷が並ぶ下向(しもむかい)町と寺地等を総称して向(迎)町と呼びました。図1は、明治20年に作成された中野村二番字寺前の図です。西端が東街道に面する大工町で、南側に枡形(ますがた)の形状を残しています。中央の南町は、馬場先通(ばばさきとおり)とも呼ばれていました。その南側は中町(街)、東町(街)、遠東(とおひがし)町(街)が並び、北側は西町(街)と下向町(街)になります。その東側は寺地ほか一面畑地となっていました。星印1は蒼龍寺(そうりゅうじ)の寺院地、星印2は東泉院(とうせんいん)墓地、星印3が同慶寺(どうけいじ)跡地に相当し、蒼龍寺の東側にあった往時の藩主の御葬祭場(ごそうさいじょう)は、杉の大木を残す墓地と雑木林になっていました。

この図1の形状に中野字北反町と、中村字宇多川町、字袋町、字砂子田を加え、『奥相志』の記述を図に替えると図2になります。枡形は、城内では城門の角道に造る四角形の地面(じづら)を指し、城下町の入口部では、不意の侵攻に備えて枡形を形づくっています。鍛冶町の枡形は、元禄期の図に描かれているように、三間幅の土塁で南転町(みなみころびまち)に導き、鍛冶町、大工町と続きます。鍛冶町へ入ると石屋根の職人町が続き、鍛冶工長伏見忠左衛門丞と大工長横田新太郎の配下に、秩禄(ちつろく)八石で郷士格の名工が軒を連ねていました。具足鍛冶師(ぐそくかじし)荒金右衛門は、文久二年(1862)に江戸神田の甲冑師(かっちゅうし)明珍(みょうちん)に入門し、明珍東馬丞(とうまのしょう)を名乗りました。また、刀工斉藤剣造(さいとうけんぞう)は、嘉永7年(1854)に御野馬追の出馬を許され、元治元年(1864)には奥方様に御供し上京して禁裏(きんり)に刀剣を。献納、「宮崎越前守(みやざきえちぜんのかみ)」を拝命し以後宮崎越前守を名乗りました。また、大工衆は、文久3年(1863)の北三の丸の御殿造営に忠節を尽くし、殖産興業と御仕法による好景気で、活気を呈していたと考えられます。

 大工町の北外れは川原となり、欄干のある木橋(現在の大橋地点)を渡ると叶屋徳右衛門と伊勢屋円次郎店の前に出ます。東側の広場は参勤交代の御送迎場となっており、明和5年(1768)の「中村城下町人町屋敷地図」では、丸石でつくられた5尺(1.5m)の石垣がみられ、カラタチが植えられていることが分かります。石垣の右手(東側)は原釜街道となります。この街道は、妙見尊の御遷宮浜御下(ごせんぐうはまおくだり)にも利用されています。

※ 地面(じづら):土地、地所
※ 秩禄(ちつろく):お上からたまわる俸給、扶持

図1:明治20年 中野村二番字寺前の図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

図2:慶応元年 相馬中村城下迎町屋敷割・棟割略図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

執筆:相馬郷土研究会


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