相馬の歴史講座 「相馬中村の城下町を探る」

第4回 紀行文から見た城下町(その1) ―中村城下を通行した巡見使―

 慶長16年(1611)、小高から中村に移城し時を経ずして城下町を形成する。爾来(じらい)400年、その間にこの地を文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)を初めとして多くの人びとが訪れた。

 その中から、近世末中村を通り過ぎた幕府の巡検使(じゅんけんし)は、城下町をどのように見ていただろうか。少し触れてみたい。

 巡見使は天和元年(1681)以降、将軍の代替り毎に天領(てんりょう)・私領(しりょう)の別なく全国に派遣され、政治や民情を視察する大名統制策の一つの役職で、享保年間(1716〜1735)頃まで成果があったものの、次第に形式化していった(『国史大辞典』)。

 巡見使が中村を訪れたのは、2代藩主相馬義胤の寛永10年(1633)から12代藩主相馬充胤の天保9年(1838)に至るまで10回の多きに及んでいる(『相馬藩政紀(そうまはんせいき)』)。その中から、9代藩主相馬祥胤の天明の未曾有の大飢饉の後の同8年(1788)、城下町を訪れた奥羽松前巡見使に随行した地理学者古川古松軒(ふるかわこしょうけん)の『東遊雑紀(とうゆうざっき)』から中村の城下町の記述を紹介してみたいと思う。

 古松軒は、仙台領白石城下から角田・金山を経て坂元に入り、坂元唐船番所(さかもとからふねばんしょ)を巡見し10月4日駒ヶ嶺に泊る。翌日、相馬領の北端塚部に入る。まず仙台城下より南は「諸事の風儀(ふうぎ)上方に似て、賤(いや)しき馬士(ばし)などもさかしく見えし」と好感をもってその印象を記している。

 一行は塚部・石上を経て小泉川を渡り城下町に入ったのではなく、塚部から椎木・大坪を経由して黒木に出る東街道を通ったものと思われる。それは黒木の町並みの中程に住居する元郷士の子孫大和田寛雅氏が所蔵する『天保8年、御巡見使様御休息御手入(ごじゅんけんしさまごきゅうそくおんてはい)』なる文書があり、それには巡見使一行が大和田氏宅を御用宿として休息するので、藩では手を加えたとある。黒木駅(当時は岩井駅(いわいえき)と呼称)で休息したことがわかる史料である。なお、氏は以前の家に道路添いに巡見使が使った内便所があったともいう。この文書・伝承から仙台通り道の黒木駅(『奥相志』)を巡見使が通ったことは確かである。

 黒木から中村には、近世末頃は高池・上泉(通称槍町(やりまち)・長柄町(ながえちょう)とも)を経小泉川の北側に出て町に入るのが普通であったが、『東遊雑紀』に「城の外堀を通行して」とあるので、黒木駅から松川口に至る所謂黒木道を通り、外堀を通り駒焼近くの桝形から城下に入ったのであろう。

 巡見使は正使・副使・御目付(おめつけ)の三班から成り総勢百二十一名。迎える御馳走役(ごちそうやく)(案内役)は家老相馬左衛門胤豊(そうまさえもんたねとよ)。古松軒は、中村城(馬陵城とも)を「外見要害よき地理に見え侍(はべ)りし」と、地勢の利を得た堅固な城と見る。また、中村藩は城下士の府下給人(ふもときゅうにん)と各郷に居住する在郷給人(ざいごうきゅうにん)から成ることを説明し、それに対し府下給人の家屋敷を「なかなか厳重のことにして武備(ぶび)全(まった)きように見えしなり」と、治に居て乱を忘れない構え振りであると褒めている。胤豊(たねとよ)は、城下町は武家町・商家町など八百余軒と説明するものの、古松軒は二千五百軒はあると、街並みの整っているよき賑やかな町と評価している。

 宿泊所は藩の迎賓館である立谷左衛門(たちやさえもん)・立谷重左衛門(たちやじゅうざえもん)・横山庄兵衛(よこやましょうべえ)宅であった(『相馬藩世紀』)。今の東邦銀行・ハイカラ屋商店辺りであろうか。

 翌6日一行は中村を出立。本来なら山中郷(さんちゅうごう)を巡見するのが御道筋であったが、先年の山崩れで通行不能で中止とし、大手先から会所・川原町を経て東街道を原町に向かう。

 最後に古松軒は「予六十余万石の武風に感ぜして、六万石の相馬侯武風に感ぜしなり」と相馬の武風(武士道)を随所で垣間見、それを高く評価し、好感をもって眺めており、そして何よりも天明の凶歳(きょうさい)に「民家大いに衰微せし」と人びとは語るものの、それ程でもないとその回復振りに驚いている。

 多勢の巡見使を迎えるための賄料(まかないりょう)、城中の畳替(たたみか)え、道普請(みちぶしん)などの費用は千三百拾九両(『御経済略記(おんけいざいりゃっき)』)を要した大きな物入りであった。

写真:松川口(奥は桜丘小学校)

執筆:大迫徳行(相馬市文化財保護審議会会長)


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