相馬の歴史講座 「相馬中村の城下町を探る」

第3回 『田野之図』から見る中村の領域

 「田野之図(たののず)」は、『奥相志』(『相馬市史4』)に掲載されている塚田(つかだ)・砂子田(ゆなごた)・曲田(まがた)・笹川(ささがわ)辺を描いた図です。南を上に、北外堀と砂子田以北を笹川と小泉川、道祖神堀(どうそじんぼり)(現:都市水路中央幹線)で囲む東西十町の郊外を描いています。右上に「弘化三年(1846)丙午春記す所なり、黄は路、青は溝、赤は地堺、此図東西に短く南北に長きは誤り也」と記されており、検地が実施された時の村絵図と考えられます。この絵図を国土地理院の地形図に置き換え、字限図の形状と『奥相志』の地名を加えると図1となります。

 田町枡形から北の田中観音院(たなかかんのんいん)(現:歓喜寺)前を和正院(わじょういん)(現:小泉橋北側)へ向かうのが東街道で、西側の不乱院(ふらんいん)(現:慶徳寺(けいとくじ))前へ折れて鑓町(やりまち)(現:黒木字高池・上泉・桜下・榎下付近)へ通しました。右手の根岸山には、相馬昌胤公代の大遷寺(だいせんじ)、五智堂(ごちどう)ほか寛徳寺(かんとくじ)、熊野社(くまのしゃ)、北山には寿性寺(じゅしょうじ)、朝晩院(ちょうばんいん)、普明院(ふみょういん)などの神社・仏閣が林立していましたが、寛政10年(1798)に起きた火災に遭い、寛徳寺、熊野社を除いて焼失してしまいました。

 松川口(まつかわぐち)(現:桜小南側)から北西に向かう道は古街道(黒木道)で、開府時には上町から北街(北町)を通り本町の北縁をつたい笹川を越えて、黒木村迎畑(むかえはた)へ通じていました。北街は道幅を二間半とし上士(じょうし)屋敷を配置し、明暦中(1655〜1657)には田町の東側の田地へ道幅一間半の御徒士町(おかちまち)と新街、北小人街(きたこびとまち)(現:すべて砂子田地内)等を拓いて下士(かし)屋敷を配しました。

  砂子田表小街(現:砂子田地内)は正保中(1644〜1647)には上士屋敷を配し、道幅一間半の中町から東横町(現:砂子田地内)を抜けて川縁を通道としていました。文政中(1818〜1829)に熊川氏中屋敷(現:興仁寺の東側)から円弧状に北飯淵へ道を拓き、天保六年(1835)には宇多川の土手を改修し、原釜からの荷駄を通しました。

 塚之町(現:塚ノ町1・2丁目)は、小泉村字岩崎(現:中村字泉町、沖ノ内1丁目)付近に点在していた古墳(現在詳細は不明)に由来するといわれています。図2の「磐城国宇多郡中村七番字塚野町之図」は、東は北飯淵村角田(現:北飯淵1〜3丁目)、西は中村字曲田を農道で、南は中村字砂子田、北は小泉村深之町(現:沖ノ内3丁目付近)を堀や川で分けています。北飯淵に至る道筋の★印(百三十九〜百五十一番地)の地域は、開府時の屋敷割りの際に移した農家の地割です。建武中(1334〜1336)に館腰の「中村六郎広重」が勧請した道祖神祠は→印の場所(相馬駅東側)に相当し、北境に蛇行する堀は旧小泉川で道祖神堀と呼ばれました。

  旧来の小泉川は谷田(やだ)(現:黒木字勝善付近)を下り、戸波田(となみだ)(現:中村字外並田)で笹川の川道に流入していました。字限図には稲荷森南縁の土洲淵(どすぶち)(現:高池前公園付近)を削り、前沢目(まえさわめ)(現:前沢目公園付近)から深之町と沖之内(現:沖ノ内1・2丁目)を蛇行した形状を残し、北飯淵村字阿弥陀堂(あみだどう)(現:北飯渕字阿弥陀堂)の湿地へ続いていました。この川筋は、寛政九年(1797)の田村典顕(たむらのりあき)の「北山八景(きたやまはっけい)」に描かれる景勝地となっていましたが、弘化二年以後開拓され、城北の景観は一変してしまいました。黒木村桜下(現:黒木字桜下)から小泉村高池(現:小泉字高池)へ小泉川を掘り下げ、笹川の川道を四反田(現:黒木字四反田)へ導いて土洲淵へ流しました。岩下(現:黒木字岩下)から塚田(現:中村字塚田)の沼地は拓かれ「田野之図」の描く地形に変わりました。嘉永六年には、川沼の北外堀の北側に六尺幅(約1.8m)の堀普請が行われ、更に安政三年に地獄橋下(現:一の堰橋付近)の岩盤を開削し、根岸山際の牛頭天王(現:八坂神社)路へ堰堤を延ばして川筋を付け替えました。

図1:慶応元年 相馬中村城北略図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

図2:磐城国宇多郡中村七番字塚野町之図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

執筆:相馬郷土研究会


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