相馬の歴史講座 「相馬中村の城下町を探る」

第2回 『字限図』から見る城南

 字限図(あざきりず)は、旧地籍図をいいます。明治5年以後、地租改正に伴い、字単位に一筆ごとの地形を描き、地籍帳には番号、方籍(ほうせき)、地種(ちしゅ)、更に所有者名を記して地券を発行しました。図1は「磐城國(いわきのくに)宇多郡(うだぐん)成田村之内(なりたむらのうち)四番字船橋図(ふなばしず)」で、明治20年(1887)6月に作成されたものですが、道は朱、堀や川などは藍で描かれているもので、原図は相馬地方法務局が所蔵しています。

図は東が成田村若王子前(じゃくおうじまえ)と白根前(しらねまえ)、西が成田村瓦(かわら)(川原)宿(じゅく)、南が成田村不動前(ふどうまえ)、北が中野村明神前(みょうじんまえ)に接しています。蛇行する野道と水路が廻り、乱割の水田の内、図1の矢印は堀跡、また、図1の星印の地割一帯は沼地跡と考えられます。弘化2年(1845)発業の御仕法にかかる荒地開墾により田に変わったところと思われます。

同様にして中野村も捉えて国土地理院二万五千分の一図に置きかえ、『奥相志』の地名を加えたのが図2です。中央を成田村館腰から馬場野村樋之口へ「大江堀(おおえぼり)」が東流し、中野村と成田村に分けています。南側には成田村天王前(てんのうまえ)から成田村栗町(くりまち)を経て馬場野村樋之口(といのくち)に下る「中堀」と、成田村藤堂塚から馬場野村雨田に下る「南江堀(みなみえぼり)」があります。中野村には、黒木田から染師前(そめしまえ)を通り穴田(あなだ)へ蛇行して流れ、樋之口に下る「安政(あんせい)新堀(しんぼり)」があり、北側には中村城下と分ける宇多川が東流しています。この安政新堀の中程を、安場坂(現:成田字大作)から成田村若王子前に下り、中野村反町(そりまち)へ入る道筋、古東街道の中路が通っています。西側の成田村天王前から中野村清水に通るのは西街道へ至る八幡道で、旧来は六軒町(ろっけんまち)(現:坪田字神路町)を右に下り、岡本の集落を抜け成田村瓦(川原)宿へ通じましたが、慶應元年に直道となりました。清水の西側に孤立する段丘は歓喜寺境内で、熊野山とも呼ばれました。鈴木重原(じゅうげん)が熊野社を勧請し、また、建武3年(1336)には結城宗広(ゆうきむねひろ)の臣、中村六郎広重が熊野堂城を築いた所で、山裾には熊野堂町がありました。この熊野堂町は、慶長16年(1611)の中村開府後に城下へ移り南町(宇多川町)と呼ばれました。

東方の上向町は寛永3年(1626)に義胤公随附の衆士に屋敷割され、一間半幅の直道を南白丁町(みなみしろちょうまち)(現:向陽中北側)に通しました。また、西方は延宝3年(1675)に真福寺脇(現:上水道第二水源地付近)の河川敷を下士に分け、一間半幅の道筋に清水本町、西転町(にしころびまち)、中町、南町が並んでいました。東横町は、長谷寺(現:仏立寺共同墓地)角に奉られた天神祠から、天神町とも呼ばれていました。享保14年(1729)に、浪江幾世橋詰の衆士に分け与えられた南新町と西横町は、文化年間(1804〜1817)には竹藪や畑地となり、道は木立をぬって杉土手に出て山上道に続いていました。

東側の石積坂(馬場野村と日下石村の境付近)から樋之口へ下る直道は東街道です。開府前は馬場野村薬師堂の一里塚から五郎右衛門橋の斜面を白根前に下り、染師前から天水下(あすいした)(現:西山)の川原に出ました。当時の宇多川は清水から柏葉町を過ぎ、天神森(現:中村城)の山裾を通り、長友で猫堀筋に向きを変えて百槻に流れていました。東街道は、城下東縁の町家筋に付け替えられたもので、亀下の一里塚から馬場野村と成田村の間を通り、寺前の鍛冶町枡形へ通ず道筋となりました。

図1:磐城國)宇多郡成田村之内)四番字船橋図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

図2:慶応元年 相馬中村城南略図

※図をクリックすると、PDFファイルが開きます。

執筆:相馬郷土研究会


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