相馬の歴史講座 「相馬中村の城下町を探る」

第1回 中村城下の町づくり

今から399年前の慶長16年(1611)、藩主相馬利胤は小高から中村の地に居城を移し、政治経済の中心地とするとともに北辺に対する強化を図りました。この時、現在の相馬市の基礎となる城下町が形成されることとなりました。城は、中世に造られたものをとり込み増改築する形で、本丸を中心とした縄張りの城が形成され、それまで城の南側を流れていた宇多川を、愛宕付近から南に流路を変え、城域を拡張するとともに堀や土塁を巧みに利用した堅固な城としました。

利胤は築城と同時に領内に散在していた家臣を集住させるため城下町づくりにあたり、慶長17年(1612)から、木幡太郎右衛門、岡田又左衛門を中村町屋敷割奉行として始められました。町は城の周辺に重臣を配置し、下級武士はその周りに住まわせました。商家は大町、田町、南町(宇多川町)、上町(慶長以前からあった町と考えられている)を中心に配置され、大工や鍛冶など諸職人はそのまた周辺に配置するという形をとりました。町の南と北の入口には土塁を築き、枡形といわれる城下町特有の道路形態をつくりました。南の枡形は中野字北反町の正西寺前に、また、北の枡形は田町と荒井町の境(柳橋付近)に今も残っています。

町割りは、一屋敷間口七間、奥行十五間と定め、間口三間半も許可しました。町は職種により前述したように住居を区分し、中村、西山、中野(向町)の範囲に配置しました。幕末(安政4年:1854)から明治初期まで15年の歳月を費やして編纂された地誌『奥相志』により旧町名を見ると、
大手前巷陌(おおてさきこうはく)、
大手南巷陌(おおてみなみこうはく)(会所(かいしょ)町(まち))、
堀河巷陌(ほりかわこうはく)、
西山(にしやま)河岸(かがん)(西山(にしやま)片町(かたまち))、
西山(にしやま)小街(こまち)、
北片(きたかた)小街(こまち)、
北街(きたまち)、
不開門前(あかずのもんまえ)、
桜(さくら)馬場(ばば)(桜(さくら)小路(こうじ))、
袋町(ふくろまち)、
新馬場(しんばば)、
鷹巣町(たかのすまち)(長松寺(ちょうまつじ)小路(こうじ))、
柏葉(かしわば)町(まち)、
鷹局(たかべや)町(まち)、
西(にし)小街(こまち)、
中小街(なかこまち)、
御壇(おんだん)小街(こまち)、
上河原(かみかわら)北片町(きたかたまち)、
狢(むじな)町(まち)、
上河原町(かみかわらまち)、
下河原町(しもかわらまち)、
同身(どうしん)町(まち)、
柳(やなぎ)馬場(ばば)、
御徒士街(おかちまち)、
新街(しんまち)、
鞘師街(さやしまち)、
泉田街(いずみだまち)、
北小人街(きたこびとまち)、
下向街(しもむかいまち)、
工人街(こうじんまち)、
(木工(だいく)町(まち))、
鍛冶(かじ)町(まち)、
上向町(かみむかいまち)、
反町(そりまち)(鋸匠町(こびきまち))、
清水町(しみずまち)、
大街(おおまち)、
宇多河町(うだがわまち)(南町(みなみまち))、
銃工街(てっぽうはりまち)、
田街(たまち)、
上街(うわまち)
等の記録が見えます。現在使用されている町名もあり、また、道路の状態や屋敷割りなどを確認することができるところもあります。最もよく残っているのは中野字黒木田・染師前付近で、今も昔の面影を偲ぶことができます。

中村城下地図

執筆:橋本博幸氏(相馬市教育委員会生涯学習課)


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