相馬の歴史講座 「中村城」

第12回(最終回) 中村城の価値

相馬氏と築城(第3回参照)

城内から移築された正西寺高麗門

城内から移築された
正西寺高麗門

文治5年(1189)奥州合戦の功で初代相馬師常(もろつね)が行方郡を与えられ、6代重胤が下向して小高城を本拠としました。明応元年(1492)標葉郡、天文12年(1543)宇多郡を支配し、三郡を領して幕末を迎えます。源頼朝の御家人(ごけにん)以来存続した大名は、薩摩の島津氏、人吉の相良氏、盛岡の南部氏、仙台の伊達氏もありますが、頼朝に与えられた本領を守り通したのは相馬氏のみです。

そのため中世の郷士制度・野馬追祭(国指定重要無形民俗文化財)が遺存しましたが、存亡の危機が建武2年・天正18年・慶長7年・慶安4年の四度ありました。しかし、奇蹟的に南奥の覇者伊達政宗にも屈せず存続しました。桓武天皇―平将門の系譜を引く相馬氏を、『寛永諸家系図伝』を編纂した林羅山は、「諸大名の中で最も優れた家系である」と褒(ほ)めています。

奥州合戦(平泉征伐)の帰路頼朝が天神林※に旅営したと伝える(『奥相志』)のは、海道の大将千葉常胤(師胤の父)だったのを、中村城の由緒を飾るため山道(中通り)を往復した頼朝におきかえたのでしょう。創築は白河の結城宗広の一族中村広重の子孫中村某で、大永年間(1521−28)名城になると予言した樵夫(きこり)平右衛門(父は円蔵)を、口封じのため人柱に立てたという伝承があります。樵夫が取り計らったので、夫館(ぶたて)と呼びました。円蔵はこれを怨み祟ったので、中城に祀られました。

中世の中村城

城地は阿武隈山地の高峰天明山から東へ派生する支丘の突端部を利用し、西山の鞍部(あんぶ)を二本の堀切りで切断しています。現在共に道ですが、内側が古く西側が新しいのでしょうか。ここの巨大な土塁は土城らしく、圧観です。

城の北辺の自然の池沼、蓮池と溜池(東西621m・南北110m)の中央に100mの土橋が築かれ、古昔は長橋で対岸に岩崎塁があり、二つの池は北の守りです。夫館は東西稜線上の中館・丸土張・中城・西館でしょう。

近世の中村城

「中村」の地名は平安前期の百科辞典『和名抄』の「仲村郷」で、宇多郡の中心郷です。郡衙(ぐんが)(郡役所)は黒木田(中野)遺跡で、ここを選んだのは古代からの権威と文化の継承のため、新城は交通・商業都市建設の目的でしょう。そのため愛宕下から西山河岸(泣面堀)を流れていた宇多川を、町割りのため南へ350m移設しました。小高城からは金箔瓦が出土し、これは地域の拠点に豊臣政権の安定性をアピールする目的で定めた全国二十五城のうち、若松・仙台城と並び北限の豊臣の城です。本丸大書院を中村へ移築したのはその後身として権威継承のためで、豊臣は滅んでも権威は持続します。

永禄6年(1563)隆胤が城代となり、父相馬盛胤が西館で補佐した時、伊達に備え大改修をしたらしく、慶長16年の築城はわずか四カ月ですみました。現存の遺構は大永年間・永禄6年・慶長16年の細分が必要です。慶長の築城は、東三の丸・南二の丸・西三の丸・北三の丸・妙見郭・円蔵郭と考えられ、若松城に倣(なら)って東・西・北に巨大コ字型馬出状郭を設け、赤橋は廊下橋(屋根・壁付)でした。

戊辰戦争の時、仙台追討総督四条隆謌(たかうた)が8月7日中村へ入城し、9月15日仙台藩が相馬口の政府軍に降伏し、10月1日総督が仙台に出発することで中村城は終焉を迎えます。

中村城の価値

(1)中世の夫館を近世に利用し、総ての郭が保存されている。

(2)慶長の拡張で直線・直角で囲んで複雑な構成となり、新旧の喰違い虎口と内升形が共存して城道は連続升形虎口となる。

(3)土作りを基調とする一方古式石垣があり、捨堀・横矢掛を組合せ、大型コ字状郭で囲う甲州流縄張りである。

(4)戦国合戦を再現する「相馬野馬追祭」総大将出陣式を執行する城である。

※天神林
天の神の林、現在の中村城本丸、西二の丸付近か。

執筆:鈴木啓氏(福島県立博物館初代学芸課長)


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