相馬の歴史講座 「中村城」

第11回 中村城と城下町の形成

中世から270余年、累代相馬氏の居城であった小高城は、宇多・行方・標葉三郡のほぼ中央に位置し、浜街道の要衝(ようしょう)の地にあったものの、狭隘(きょうあい)などの理由から近世に入った慶長16年(1611)、初代藩主相馬利胤が居城を宇多郡中村に移し、そのまま明治を迎える。

藩境近くへのこの移城は、戦国期に覇(は)を競った伊達政宗の雄藩仙台藩に対して抗争を意識し守りを固めるためであった。しかし、何よりも宇多川下流の松川浦、蒼海(そうかい)渺茫(びょうぼう)たる海洋を控える中村の地勢は、海上交通の要衝として、海運の拠点として発展を視野に入れての移城ともいわれている。

中村城は自然の丘陵を利用しての築城で、古く平安初期に坂上田村麿が蝦夷地平定の途上築城に関ったとか、鎌倉期に源頼朝が藤原征滅の帰途天神林に露営したとか伝えられている。

歴史的には建武4年(1337)の熊野堂の戦いでは、中村城は付城的な位置にあった。大永(1521〜1527)年間には、樵夫(しょうふ)の言を基に中村某が築城したというものの、常に対峙(たいじ)していた黒木城代黒木弾正に滅ぼされる。この黒木と中村城代の弟中村大膳は、相馬顕胤の麾下(きか)でありながら主に敵対することが多く、天文12年(1543)に相善原(新地町)で誅され、この時点で相馬氏は宇多郡を領有し、草野式部を中村城に移し宇多郡の旗頭とする。

永禄6年(1563)、中村城代中村式部と黒木城代青田信濃が相馬氏に謀反(むほん)し相馬を退去。その後に相馬盛胤の二子隆胤が中村城代に配される。天正(1573〜1591)年間に入ると、伊達氏との熾烈(しれつ)な戦いが続き、同17年、境目の城で中村城の支城である駒ヶ峯・新地の両城が落城。翌年には城代相馬隆胤が童生淵(石上)で討死する。このような伊達氏の猛攻の中、豊臣秀吉の私闘禁止令が出、相馬氏は三郡が安堵され、近世を迎える。隆胤討死後、西館に隠居し中村を支配していた父盛胤が慶長6年(1601)に逝去。この時から利胤が中村へ移るまでの10年間は城代を置かず空城となる。

移城を決した利胤は慶長16年7月、木幡長清を築城奉行に命じて着工し、12月に完成し小高より移り、君侯(くんこう)累代(るいだい)の居城となる。

中村城は主丘陵に本丸を、その西隣に相馬氏累代の氏神妙見社を妙見曲輪に置き、二の丸、三の丸そして岡田館を配置し、その間に堀や空堀、そして石垣の少ない土塁を主とした縄張りの城郭である。本丸に殿舎を設け、その中の大書院などは小高城から移築され、他に天守閣、櫓などを構えた城となる。三代藩主相馬忠胤の時代の承応(1652〜1654)、延宝(1673〜1680)の頃、外堀の拡張、搦手門の西山口門の修復工事などが完成し城郭としての体裁が整う。

商人町であった現在の大町

商人町であった現在の大町

利胤は移城の翌年、木幡太郎右衛門らを町割屋敷縄張奉行に命じ、城下士、商・工人の屋敷を配置した城下の町割を行ない、三郡散在の諸士を中村に集めている。

まずは、浜街道の城下への出入口は直進を阻む桝形という喰い違いの道を設けての町割。町は城の南と東、西に西山村を含む形から成り、重臣や大身は現在の大手先などの城近くに、中身の者は西山・砂子田などに、他の小身・徒士(かち)・小人などは新町、袋町、河原町という順で屋敷割をしている。一方商人町は大町を本通りに田町・上町・南町(宇多川町)の四町から成り、大町、田町には浜街道の検断が置かれる。職人町は商人町に接し、宇多川南の通称向町には大工・鍛冶などの職人が町を形成している。

寺社は各所に設けられており、城内に相馬氏の氏神妙見社、南に祈願寺歓喜寺を城の鬼門には八坂・愛宕社を。また、京に倣(なら)い小泉を北山と称し、多くの寺社を配置する。

執筆:大迫徳行氏(相馬市文化財保護審議会会長)


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