相馬の歴史講座 「中村城」

第6回 中村城の石垣

中村城本丸南面の石垣

中村城本丸南面の石垣

城郭に総石垣を採用した第1号は、天正4(1576)年の安土城です。石積みは、近江坂本の穴太(あのう・大津市)で、比叡山延暦寺の石垣・石塔類の製作に従事した穴太衆です。

事後国内各地の大名が招聘して石垣を築きますが、蒲生氏郷は加賀前田家の穴太源太左衛門の3男奥泉を召抱え、若松城天守台石垣他を築きました。

石積み技術の発達は石材加工からみると、(1)野面積(のずらづみ)→(2)打込はぎ→(3)切込はぎ、壁面形状からみると、(1)布積崩し(ぬのづみくずし・大小の自然石を用い、横目地が波打つ)→(2)荒割の角礫を不定に接合する乱積・根石を鋸歯状に据え、上に角を落として積む落し積・横目地を水平に積む布積→(3)石材の接合面を磨り合せて隙間無く積む切石積があります。

(2)は石材を一定の四角錐に割ることにより、壁面に要する石数・人数・費用を速算可能にする合理化で、隙間に詰石を用い力強い壁面となります。

相馬義胤は文禄元(1592)年、豊臣秀吉に随従して肥前名護屋に陣城を築きます(文禄・慶長の役)。相馬陣は東松浦半島左岸で、上杉景勝・直江兼続陣と隣合せです。A〜Eの4郭構成で野面積の石垣・鏡石・虎口があり長径1m程の自然石を多用し、高さ1.5m残存します。

慶長8(1603)年幕府を開いた徳川家康は、全大名に江戸城他の「天下普請」を命じます。大名の財力と戦力を削減するためで、相馬藩は江戸城普請に慶長8・11・12・16・18・元和6・寛永6・13年に従事(『相馬藩世紀』)し、多大の出費で財政難となりました。

中村城には、外大手門升形・中門升形・赤橋台・本丸切岸・搦手門台・黒橋台・黒橋通路・中村神社階段下他に石垣が築かれました。肥前名護屋城・江戸城石垣普請でも家臣に石垣巧者は育たず、会津浪人の幸田彦左衛門を招いて築き、利胤はその技術に満足して家臣に任じています。

中村城石垣の石材は、川石の丸味のある自然石(相馬では「常の石」という)を調達しているのが特徴です。大小の山石を用いるのが一般的で、中村城でも赤・黒両橋付近で一部に安山岩?の切石がみられ大小の石材で布積崩しです。

本丸切岸上部を一周する鉢巻石垣は、雑木に隠れていて見えませんが、土塀の土台で吟味された積み方で注目されます。特に目立つ南面は、同大の石材を集めて小口を水平に揃え、川石では珍しい横目地が平行線となる布積としています。

自然石の川石で布積の例は稀で、幸田の残した異色のデザインと云えます。中村城のベストポイントなので、見えるような整備が望まれます。

(3)の切石積は、外大手門の両袖石垣にあり、装飾性が高く丁寧に積んでいます。(2)の落し積は中村神社階段下両側の他、野馬土手の羽山木戸・菖蒲沢木戸跡に見られます。

金箔瓦の太閤の城小高城の後身中村城は、若松城に次ぐ格式を備えています。

執筆:鈴木啓氏(福島県立博物館初代学芸課長)


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