相馬の歴史講座 「中村城」

第5回 中村城の土塁・堀

土塁

これは堤防状に郭(くるわ・曲輪)の周りに築いた構造物で2種あり、「敲(たた)き土居(どい)」は粘土と黒土を互層に敲き締めて築き、「芝土居」は法面(のりめん)に雑布状芝塊(しばくれ)を積む工法です。

会津若松生まれの山鹿素行は江戸初期の軍学者で、甲州流・北条流軍学を学んで『武教全書』を著しました。

この本によれば、敲土居の断面は敷(しき・底辺)八間、褶(ひらみ・馬踏(まふみ))(上幅)二間、高さ三間としています。『正保城絵図』(1644〜47年)で中村城の土手高の記載は、本丸南辺五尺・同西辺五尺・同北辺五尺・蓮池南辺土手高さ八尺・西館西辺七尺とあるのみです。筆者の目分量で現況は、本丸土手高0.5m・幅3m、大手門枡形(ますがた)土塁高は2m・幅6m、長友東辺は高さ2m・幅3m。東三の丸南辺土塁は高さ2m・上幅2.5m、底辺10m、法面は外45度・内35度です。ここは外大手門防御の重要地点(陣地)です。

黒橋を渡り西二の丸から南への出口は喰違(くいちが)い虎口(こぐち)で、土塁の高さ3m・上幅3mで堅固ですが、築いた土手でなく地山を切り出して整形しています。

蓮池南岸の土塁は現況2.5m・上幅5m・外法(のり)10m・内法1.5mで、極めて堅固です。土塁の圧観は土門西側で、高さ5m・上幅3m・下幅20mの壮大さで本城随一です。

大手門付近の堀

大手門付近の堀

この種類は、水堀・乾(から)堀・堀切があります。中村城は東に延びる丘陵の先端部を利用しているので、西山で尾根を切断しないと独立丘陵にならず、2本の巨大堀切があります。両者は同期か新旧か不明です。

蓮池と溜池は一体の自然の池沼とみられ、ここに立地したのは北辺防御を重視したからでしょう。堀の規模は本丸内堀で最大幅四十三間・深さ八間、東三の丸堀で南辺十間・東辺十二間・深さ六尺、東二の丸堀で堀口(幅)十間〜二十四間・深さ七尺、北辺で幅二十三間・深さ六尺と記されています。

堀は底の断面形で分類し、底が広く平ならば箱堀、毛抜状に丸みのあるのは毛抜堀、V字形は薬研(やげん)堀と呼びます。中村城の堀は、すべて箱堀です。

『武教全書』に「堀之事 一堀広さの事 付(つけたり)矢かかりの事 十間を上 十五間を中 二十間を下とするなり。是は陰陽(おんみょう)の縄 堀切小口きわの事なり」とあります。

十間(18m)を上、二十間(36m)を下とするのはなぜでしょう。小口(虎口)際(きわ)の場合だから、大手門は固い守りで堀幅は広い方が上とみて、学者は十間は下の誤写と言います。中村城大手門脇の堀が十間です。中村城には北と東に長大な捨堀(すてぼり)があり、これによって横隊で押寄せる敵を分断して縦隊にし、東三の丸南面を大手門へ進む敵に横矢を掛けて、僅か18mの至近距離で狙(そ)撃(げき)するのが目的です。東三の丸土塁上幅は2.5mあり、土塀内側中段に足場を組み、屋根の上に弓・銃口を揃えて一斉射撃する計略で、十間を上とするのは中村城をみれば正しいのです。

執筆:鈴木啓氏(福島県立博物館初代学芸課長)


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