相馬の歴史講座 「中村城」

第4回 中村城の機能と構造(縄張り)

縄張りは、郭(曲輪)の配置・虎口の形式・塁濠の屈曲などの平面計画をいいます。

前回中村城のモデルは若松城と書きましたが、若松城のモデルはどこでしょう。

蒲生氏郷は国内3にふさわしい築城のため、武田信玄の家臣曽根内匠助を招きます。

曽根は甲府の本城武田氏館(躑躅ヶ崎館)をモデルにしたと考えられます。

信玄の築城術は、虎口・丸馬出・升形・横矢掛などに特徴があります。武田氏館は二町(218m)四方の主郭の南に梅翁曲輪、西に西曲輪(共に218×109mの巨大馬出状コ字形)、北に二分の一で同形の味噌曲輪が付き、基本的に武田氏館・若松・中村城は巨大馬出状コ字曲輪を三方に付けています。

中村城は中世中館(東二の丸)に、巨大コ字曲輪東三の丸を付け二重構造となり、曲輪内が狭小となり不自然です。蓮池は若松城の牛沼に相当します。

中村城の特徴は北町外堀(東西方向)と上町外堀(南北方向)で、共に土塁を伴い両者は連結しない捨堀です。侵入阻止が目的でなく、押し寄せた軍勢を堀の両端を分散迂回させ、縦列で進入させます。それを東三の丸から横矢(側射)を掛けます。

鎧武者も馬も正面装備は固いのですが、側面は弱く防ぎようがないので、弓も鉄砲も側面攻撃が有効です。東三の丸東辺にあった横矢斜(折)は、道路拡張で削られました。これは若松城西出丸にもあります。

上町捨堀の南端から大手門に接近する敵に、東三の丸南辺からの横矢は有効です。このように捨堀は、誘導のための罠です。

虎口(出入口)は、外大手門→中の門→丸土張→本丸前門の四曲輪が連続し、攻城軍は右折・左折をくりかえし、守城軍は右折する敵の右脇を突き伏せ堀に追い落とします。大手一の門・二の門共に、武者落とし堀となっています。

中村城の丸土張跡

中村城の丸土張跡
(本丸から東側へ撮影)

丸土張と本丸間の赤橋は、往時は若松城にもあった廊下橋(壁と屋根がある)でした。

「丸土張」は城郭用語に見えませんが、半月形土塁の上に土塀を上げた施設と推定します。武田流の特徴に丸馬出(北条流は角馬出)があるからで、これを後世角馬出に改造したものと考えられます。

馬出は、接近した敵に反撃のため矢弾で掩護しつつ土塁両端より突撃する捨身の施設です。武田流の特徴的築城術の「丸土張」(丸馬出)の名称が残るのは、とても貴重です。

若松城にある本丸鉢巻石垣をはじめ、虎口升形・通路石垣が中村城にもあります。会津藩浪人幸田彦左衛門の指図で構築した石垣で、甚だ堅固な技術を賞して利胤が家臣に召抱えました。本丸南面東端の野面積の石垣は保存良好で、ほぼ同大の河原石を調達して横目地を通した、いわゆる穴太流に積み美しく見ごたえがあります。横目地の通る野面積みは珍しく、幸田の独自性が光ります。幸田は、中村城の縄張りにも係っているでしょう。

執筆:鈴木啓氏(福島県立博物館初代学芸課長)


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