相馬の歴史講座 「中村城」

第3回 近世の中村城

中村城(鈴木啓氏原図より)

中村城(鈴木啓氏原図より)
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城郭は豊臣秀吉の兵農分離(武士・町人の城下集住)と江戸幕府の成立により、平野に恒久設備としての総合(交通・都市)機能をもった、平山城が築かれるようになりました。

相馬氏が小高城から中村城に移ったのは、宇多川・松川浦の海上交通と、広大な城下町建設のためと考えられます。また省エネの為旧城をリサイクルし、小高城の本丸御殿を移築しています。

築城はどこかの城をモデルにします。若松城の蒲生氏郷は徳川家康に毛利輝元の広島城を真似たいと相談しています。相馬利胤は天下の名城若松城をモデルにするため、蒲生秀行に相談したと思われます(筆者の仮説)。

若松城は元甲州武田信玄の侍曽根内匠助を召抱えて、武田流に築きました。中村城も武田流なので、共通点はどこにあるのでしょう。

本丸は共に六角で、これをコ字形巨大馬出し状郭で囲い、城の総面積は同じです。中村城東二の丸を東三の丸で囲い、平地が狭いのはリサイクル(東二の丸は中世の郭)と若松城模倣の馬出しを付けた結果です。双方の特徴は、横矢掛けが多いことです。次に相馬氏と蒲生氏の関係を見てみましょう。

若松城(会津若松市史2より)

若松城(会津若松市史2より)
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相馬義胤・三胤(利胤)父子は、石田三成(反家康派)と懇意でした。義胤が1590年(天正18)小田原城攻めの時遅刻し、改易(領土没収)のところ三成の取りなしでお咎めなく、京都千本松の義胤屋敷では三成と軍談議に花を咲かせていました。

1599年(慶長4)には、京を出発する時三成から三胤に征矢に漢詩(七言絶句)を添えて贈られました。このように三成には恩義があったので、関ヶ原の戦に参陣せず、その為三成に内通していた疑いで相馬氏は領土没収となります。三胤は誤解を解くため江戸へ登って訴状を提出し、弁解せず実状(恩人に弓を引かない)を主張しました。家康側近本田正信の口添えもあって、五か月後本領安堵(承認)されます。この間義胤は、秀行の一族・重臣の蒲生源左衛門郷成の三春領大倉に謹慎することを頼み、秀行は受入れ義胤を丁重に待遇します。蒲生氏は奥州大名の押さえとして、軍事情報収集が任務なので、築城に協力したのでしょう。

執筆:鈴木啓氏(福島県立博物館初代学芸課長)


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