相馬の歴史講座 「中村城」

第2回 中世の中村城

中世の中村城については、わからないことが多い。中村城がある旧宇多郡は、建武二年(1335)6月、相馬重胤が建武新政府から「検断」を命じられた地域であったが、その翌月、後醍醐天皇から「宇多庄」を与えられた結城宗広は、宇多郡を支配するため中村広重を派遣した。以後、北朝方の相馬氏と南朝方の結城氏が対立することとなった。たとえば、建武4年(1337)、小高城の相馬胤頼は、一族を動員して宇多庄に攻め入り、熊野堂城に立て籠もった「結城上野入道の代、中村六郎」を攻撃したことが当時の史料から確認されるが、この中村氏と「中村」城との具体的な関係はわからない。

『奥相志』によれば、大永年間(1521〜28)、中村城を築いた中村氏を滅ぼした黒木正房は、相馬顕胤の許しを得て弟中村義房を配置したという。ところが天文年間(1532〜55)、正房・義房兄弟は伊達氏に味方したため、顕胤は黒木城を攻撃して2人を帰属させた。天文12年(1543)4月、顕胤は亘理攻撃を口実に黒木・中村兄弟を勝善原に派遣、そこで兄弟を謀殺させたが、その後、草野直清を中村城に置いて中村を名乗らせたという。

しかし、天文7年(1538)に作成された伊達氏の課税台帳である「御段銭古帳」には「十壱貫七百仁十五文 中むら」と記載されてあり、「中村」が伊達氏の課税対象地であったことは確実である。恐らく、黒木・中村周辺は相馬氏と伊達氏の中間地帯にあったから、ここを支配する者は、相馬・伊達双方からの誘いを頻繁に受け、時には相馬氏に、時には伊達氏に味方したものであろう。永禄6年(1563)秋、中村直清が盛胤・義胤父子に討たれると、盛胤は次子隆胤を中村城に入れ、自身も西館に構えて伊達氏に備えたという。

写真奥の台地が「中城」
現在は相馬神社がある

この時期の中村城は、隆胤が入城した「中村城」地区と、盛胤が住んだ「西館」地区に分かれていたものと思われる。「中村城」地区は「中城」とも呼ばれ、その東側の小規模な台地「中館」と一体をなしていた。西館は、現在の西三之丸や相馬中村神社域であり、丘陵の鞍部にあたる西二之丸は中城と西館を区画する空堀であったか。また、北三之丸に隣接する「岩崎塁」は、長徳寺を中心とした北に対する防衛施設であった。

したがって、16世紀後半の中村城は、中城・中館・西館、さらに長徳寺を防御施設とした岩崎塁地区が、溜池や蓮池、さらに西二之丸(空堀か)によって区画されつつ、中村城を構成していたと思われる。慶長16年12月(1611)、相馬利胤がわずか5ヵ月で入城できたのも、ある程度の備えが整備されていたからであろう。

※検断=刑事上の罪を取り調べて明らかにし、裁くこと。

執筆:岡田清一氏(東北福祉大学総合福祉学部教授)


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