相馬の歴史講座 「中村城」

第1回 中村城ができるまで

中村城跡が立地するところは、阿武隈山系から東に舌状に延びる自然丘陵の先端部です。現在残っている城は、その先端部と周りの平坦地を巧みに利用し形づくられている「平山城」といわれるものです。
そもそもここは、城などを形成する場所としては良好な地形だったと見え、かなり古くから利用され、幕末から明治初期にかけてまとめられた相馬の地誌『奥相志』には、以下のことが記されています。

古くは夫舘(ぶだて)といわれ、天神の祠があった。文治5年(1189)には、源頼朝が奥州合戦の帰途、ここに宿営したと伝えられている。大永年間(1521〜1528)には、中村某氏が築城、しかし、黒木弾正正房に奪われ、黒木大膳義房(黒木弾正の弟)が入ることとなる。この兄弟は、相馬氏に対し繰り返し謀反をおこしていたため、天文12年(1543)4月、勝善原(駒ヶ嶺の相善原か)で討たれる。ここで、中村城には草野式部直清を城代として配し、中村氏を名乗らせている。この時、黒木城には青田信濃顕治を城代として配している。永禄6年(1563)に中村式部、青田信濃は伊達氏に誘われ相馬氏に反逆し、相馬盛胤、義胤父子に討たれている。
後中村城には盛胤の子隆胤が城代として入り、西舘には補佐役として盛胤がすむこととなる。しかし、天正18年(1590)、隆胤は伊達氏との戦により石上(童生淵)で戦死、慶長6年(1601)10月には盛胤も逝去、以後10年間は空城となっている。

写真:中村城を中心に見る航空写真
(写真:中村城を中心に見る市内の航空写真)

この時の城の状態は、丘陵の尾根を利用して造られた東西に連なる連郭式の構造を呈していたと考えられています。
現在私たちが目にしている近世城郭の工事に着工したのは慶長16年(1611)7月で、相馬利胤が木幡勘解由長清に命じて修城にかかり、11月には壕、石垣、城壁、建物など大部分ができあがり、12月2日に小高よりこの城に入城しています。
工事は中世の城を拡張し、補強するような形で行われたものと考えられ、以前の連郭式(※1)から本丸を中心に、東西南北に二ノ丸(郭)を配し、東西北に三ノ丸(郭)を配する輪郭式(※2)の城の形態をとっています。また、当初、工事に際しては城の南側を流れていた宇多川の流路もさらに南に移し、城下町を形成しています。

中村城に今も残る建物は相馬中村神社(旧妙見宮)と外大手一ノ門だけですが、石垣、土塁、堀なども良好な状態で遺存しており、往時の姿が偲ばれます。

※1連郭式 本丸以外の郭(区域)をほぼ一直線上に配置する。
※2輪郭式 本丸を中心に同心円状に他の郭(地域)を配置する。

執筆:橋本博幸氏(相馬市教育委員会生涯学習課)


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