相馬の歴史講座 「御仕法」

第12回 至誠の実践

富田高慶著『報徳論』の中に「至誠(しせい)をもって本(もと)となし、勤労(きんろう)を主(しゅ)となし、分度(ぶんど)を立てて体(てい)となし、推譲(すいじょう)を用(よう)となす」とあるように報徳精神の根本は"至誠"にあります。相馬中村は、二宮尊徳の教えの土台である至誠を実践しました。

至誠=まごころをもって役立つことを進んでやろうとすること

「二宮尊徳坐像」歴史民俗資料館所蔵

「二宮尊徳坐像」
歴史民俗資料館所蔵

日光仕法への支援

相馬中村藩の御仕法発業から8年後、日光神領で二宮仕法が発業しました。このとき、藩主充胤(みちたね)は日光仕法への資金援助を国家老池田胤直(たねなお)に命じましたが、家臣団は大反対でした。この頃、藩では幕府への借金返済が完了したばかりでした。そこで胤直は、まだ借金返済が続いているものと考えれば献金は可能であると家臣団を説得し、毎年500両を10年間献金し続けました。この額は、日光仕法総額の3割に相当しました。
尊徳亡き後の日光仕法は、跡を継いだ嫡子尊行を、富田高慶をはじめとする相馬藩士たちが補佐しました。18人いた実地指導者のうち、実に14人が相馬藩士でした。
このほかにも、藩から農民を冥加人足(みょうがにんそく※1) として派遣したり、山間部で農耕馬が不足していた日光に馬の供給※2などを行いました。
藩が日光仕法を支援したことは、御仕法が成果を収めていることに対する幕府と二宮尊徳へのご恩返しでした。まさに報徳思想の至誠と推譲の実践でした。

御仕法の成功の秘けつ

尊徳の代理として御仕法の指導にあたった高慶は、一藩士であるにも関わらず、藩主充胤から「先生」と呼ばれるほど信望がありました。
高慶は、人の和を御仕法指導の第一に置きました。これは、尊徳の"一円融合"(いちえんゆうごう)の思想によるものです。何事も一人ではなく、力を合わせて行動してこそ結果が出るという尊徳の考え方は、高慶によって実践されました。
御仕法は、日光仕法とともに、最もよく効果を上げたと言われていますが、尊徳も御仕法の成功を認めています。尊徳が、「この道を発明して30有余年の間、諸方の求めに応じて仕法を施したが、ひとり相馬だけが初めの約束を守り、連綿と続けて実行し、すこぶる仕法の効験を得ている」※3 と、相馬中村藩を称えたことが報徳記に記されています。
御仕法の成功は、藩主から村人までが至誠を貫き、一円融合の精神で、上も下もなく一致団結して藩の復興に努めた結果であったと言えます。※4

「市民憲章の碑」相馬市役所前

「市民憲章の碑」
相馬市役所前

相馬市民憲章

相馬市では、昭和51年3月31日に『相馬市民憲章』を制定しました。この中で、「報徳の訓えに心をはげまし、うまずたゆまず豊な相馬をきずこう」という文言が謳われているとおり、二宮尊徳が教える報徳精神は、現在に至るまで受け継がれています。

 

※1
二宮尊徳の徳に報いるため、日光に派遣した人足。
※2
安政2年(1855)〜慶応4年(1868)の間、今市の問屋が年2回、相馬領内の馬市で704頭の馬を仕入れた記録があります。
※3
『補注 報徳記(下)』(佐々井典比古注訳・一円融合会刊)162頁引用
※4
村単位の御仕法は、村内に一人の困窮者もいなくなった時点で「仕上げ」と呼び完成と見なしました。一村が完成すると、推譲で得た報徳金を資金として、次の村で御仕法を発業しました。発業する村の決定は、郷内全村の投票で決定しました。

写真

「二宮尊徳坐像」(相馬市歴史民俗資料館所蔵)
「市民憲章の碑」(相馬市役所前)

「市民憲章の碑」は、宇多川上流の石が使われています。「二宮尊徳坐像」は、相馬市名誉市民の彫刻家佐藤玄々の作です。玄々は、昭和16年に「二宮尊徳像」を木彫で制作し都内の二宮神社に奉納しましたが、惜しくも戦災で焼失してしまいました。本作は、焼失前に型取りしたものと考えられます。


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