相馬の歴史講座 「御仕法」

第11回 御仕法や二宮尊徳に関係のある有名人

二宮尊徳は、江戸時代末期の疲弊した村々を立て直したばかりでなく、明治時代以降の日本人にも多大な影響を及ぼした人物です。今回は、佐藤玄々、内村鑑三、武者小路実篤、幸田露伴と尊徳との関係について紹介します。

地蔵堂(愛宕山)

地蔵堂
(愛宕山)

佐藤玄々(さとうげんげん)

昭和36年に相馬市名誉市民第一号となった彫刻家佐藤玄々は、三越百貨店本店(東京日本橋)の中央ホールに立つ『天女(まごころ)像』の作者として有名です。作家武者小路実篤は、天女像が完成したとき、「その美しさと大胆さは伝説の左甚五郎も及ぶまい」と感嘆しました。
明治21年、中村町反町前に生まれた本名清蔵(さいぞう)の生家は、代々宮彫刻師の家であり、清蔵も幼くして父や叔父から彫技を学びました。
清蔵は、よく愛宕山に建つ二宮尊徳ゆかりの地蔵堂に足を運び「自分もいつかはこのように見事な仕事をしたい」と心に誓いました。地蔵堂とは、慶応2年(1866)、藩が招いた米沢の名工上杉主殿頭(うえすぎとのものかみ)の作で、尊徳の遥拝所として墓に続く石段のたもとに建立されたものです。

内村鑑三(うちむらかんぞう)

明治の文豪志賀直哉は、生涯に尊敬した人物は3人いると語っています。それは、祖父の志賀直道、友人の武者小路実篤、師の内村鑑三です。
鑑三は、英文で記した『代表的日本人』を明治41年に出版し、尊徳など5人※1 を海外に紹介しました。尊徳が海外に紹介されたのは、このときが初めてです。尊徳に関する記述の中に、「尊徳が成し遂げた事業の中でもっとも成功したのは相馬藩の復興であった」との一文があります。鑑三によって、尊徳とともに「Soma」の名が、海外に紹介されました。

武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)

志賀直哉は、尊徳の弟子であった祖父直道から尊徳を知ることはなく、尊徳の業績を深く知ったのは、実篤の著『二宮尊徳』からであると語っています。
実篤は、前著のほかにも『西郷隆盛と二宮尊徳〜志賀の叔父さんに聞いた話〜』と題した随筆を残しています。
「廃藩置県で御仕法が廃止されそうになったとき、富田高慶は西郷隆盛を頼って継続を依頼しました。依頼を受けた西郷は、ときの大蔵官僚で、後に日本資本主義の父と称された渋沢栄一に頼みに行きましたが、御仕法が継続されることはなかった」といった内容が紹介されています。

金次郎像(飯豊小学校)

金次郎像
(飯豊小学校)

幸田露伴(こうだろはん)

明治24年、幸田露伴が少年少女向けに書いた伝記『二宮尊徳翁』の中に、薪を背負って本を読む少年金次郎の挿絵が初めて登場します。この挿絵が、後の日本人に"二宮尊徳=薪を背負って本を読んでいる人"のイメージを形づくりました。
露伴が『二宮尊徳翁』を書く際に手本にした資料は、高慶著『報徳記』でした。報徳記の記述※2 を引用し、少年時代の尊徳像を挿絵に登場させました。
露伴に限らず、その後出版された尊徳関連の図書類の多くは、報徳記を拠りどころとして書かれています。

写真 地蔵堂(愛宕山)、金次郎像(飯豊小学校)

地蔵堂は慶応2年(1866)、米沢の名工、上杉主殿頭(うえすぎとのものかみ)作で、立派な彫刻が施されています。
金次郎像は市内にある小学校10校のうち、中村第一、八幡、飯豊の各小学校に立っています。

※1 二宮尊徳、西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、日蓮
※2 「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中読みながら之を誦し少しも怠らず」


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