相馬の歴史講座 「御仕法」

第10回 相馬と二宮家の関係

相馬中村藩と二宮尊徳(二宮家)との関係は、富田高慶や斎藤高行が尊徳の四大門人に数えられていたことに留まりません。現在、相馬市が北海道の豊頃町や大樹町と姉妹都市を締結していることも、二宮家との関係に由来しています。

二宮文(ふみ)

二宮文の画「竹に雀」

二宮文の画「竹に雀」
(市歴史民俗資料館)

富田高慶(こうけい)が、二宮尊徳の代理として御仕法の指導ために帰国してから7年後、高慶は、家老池田胤直(たねなお)の仲介で尊徳の長女文(文子ともいう)と中村で式を挙げ、向町に新居を構えました。
書画に長けていた文は、夫の秘書役として仕法記録などを手伝いながら、自宅で藩士の子供たちに手習いを教えましたが、結婚から1年後、出産のために帰った実家で亡くなりました。

二宮家の相馬移住

戊辰戦争(慶応4年/1868)が起こると、相馬中村藩の誘いで、尊徳の妻歌子と長男尊行(そんこう)、その妻ホ子(こうこ)と尊親(そんしん)ら孫3人が、戦火を逃れて中村へやって来ました。
明治3年、13代藩主誠胤(ともたね)が用意した石神村(現南相馬市原町区石神)の家へ移住すると、高慶も二宮家のお世話役のため隣家へ引っ越してきました。明治30年に尊親一家が北海道へ移住するまでの間、一家は石神村で過ごしました。
北海道移住後に残された家屋は、石神村に払い下げられ、しばらくの間、村役場として利用していました。

興復社(こうふくしゃ)

『興復社』※1 は、廃藩置県で御仕法が廃止されてから6年後(明治10年)、御仕法の事業を継続し広めていくためにつくられた結社です。高慶を社長に、尊親を副社長にして設立されました。
興復社は、二宮家の住む石神村を拠点に活動を展開し、磐前県(いわさきけん・現福島県)内で開墾と営農資金の貸付事業を行い、約1千町歩を開墾しました。
明治23年に高慶が亡くなり尊親が社長に就任すると、尊親は、興復社の活路を北海道での新しい村づくりに求めました。

北海道移住

明治29年、尊親は移住先を探すため、興復社の社員たちと探検隊を組織して北海道に渡り、苦労の末に十勝平野でウシシュベツ原野を発見しました。
翌年、尊親は、相馬地方の移民団15戸50数名を引き連れてウシシュベツへ移住し、『牛首別興復社』を設立しました。尊親は、祖父尊徳にならい、開拓の基本を報徳精神におき、報徳訓や至誠・勤労・分度・推譲を厳守しました。
入植から10年間で、牛首別興復社は、移民160戸958人、開墾した土地は844町歩(837ヘクタール)の二宮牧場を完成させました。現在の中川郡豊頃町にあたります。 
相馬市が、昭和58年3月に市制施行30周年記念事業として豊頃町・大樹町と姉妹都市を締結した原点は、尊親の開拓事業にありました。

二宮家の生活

北海道開拓で一定の成果を収めた尊親一家は、明治40年に再び中村に戻ってくると、愛宕山に居を構えました。
二宮一家は、毎日朝食前に報徳訓の朗読を行いました。尊親の母ホ子は、報徳婦人会会長として活躍しました。尊親は、中村城三の丸跡の相馬家事務所で執事を勤めながら、『報徳全集』の編さん作業を行いました。尊親の子どもたち2人は旧制相馬中学校に通いました。

※1 興復とは「衰を興し廃を復す」ことで、衰えたものを新たに始め、廃れたものを再び元に戻すという意味。

写真 二宮文の画「竹に雀」

(相馬市歴史民俗資料館所蔵)

小さい頃から書画に長けていた文は、多くの作品を残しました。高慶との結婚後、中村滞在わずか1年で亡くなった文の遺髪を埋めた墓が、高慶の実家の菩提寺(蒼龍寺)にあります。


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