相馬の歴史講座 「御仕法」

第9回 御仕法導入の実際

疲弊した農村を立て直すためには、農民に自信を持ってもらうことが必要でした。そのため、取られるばかりで与えられることを知らなかった藩政時代の農民に、自由に語る場や褒美を与えて労働意欲を高めた御仕法は、農民にとって大変な驚きと喜びになりました。

御仕法の発業

二宮尊徳は、二宮仕法を発業する村が決定すると、田畑や荒地の状況、自作地・小作地の別、戸数、貧富の状況、家畜の有無など、村の状況について徹底的に基礎調査を行い、村の分度を決定しました。通常、現地調査は尊徳自らが行いますが、尊徳が相馬へ来ることは一度もありませんでした。尊徳に代わって御仕法の指導にあたったのは、富田高慶や斉藤高行でした

弘化2年(1845)12月1日、高慶は、勘定奉行らと成田村(現相馬市成田地区)へ出向きました。村代官助役宅に村人を集めて仕法の趣旨を説明すると、さっそく仕法雛形どおりに出精者を入札し、選ばれた村人12名に無利息金を貸与しました。さらに2日後にも村人を集めて報徳思想の意味を説明すると、屋根替え入札を行って3番札者までに実行しました。

12月4日には、高慶らが坪田村(現相馬市坪田地区)に出向き、昼は北組村民に対して、夜は南組村民に、成田村と同様の手順で御仕法を発業させました。

御仕法の手法

御仕法の手法のひとつに「いもこじ会」※1 と呼ぶ常会の開催がありました。毎月1回、1戸1名の村民が出席し、農民たちが自由に話し合いました。また、記名投票で選ばれた善行者に、賞として金子や家屋や農作業道具を与えたり、家屋の修理を行うことで、村人の労働意欲や連帯を高めて、土木事業を行うというものでした。

仕法の発業に際しては多額の資金を必要とし、相馬中村藩では、総額352両を集めました。その内訳は、藩主充胤の100両や尊徳の200両をはじめ、高慶や高行や草野正辰・池田胤直両家老や家臣が寄附をしたほか、村民も縄内で資金づくりに協力しました。発業後の資金は、推譲で貯えた資金が充てられました。

宗兵衛堤(富沢地内)

宗兵衛堤(富沢地内)

御仕法の成果※2

御仕法は、廃藩置県(明治4年)で御仕法が廃止されるまでの27年間で、相馬領226村のうち101村で発業しました。このうち55村で村の立て直しに成功しましたが、残りの村は廃藩置県のため途中打ち切りとなりました。

藩領全体の主な成果は次の通りです。
ため池の新築や改修692箇所、荒地の開墾面積1、376町歩(うち水田1、040町歩)、褒美として与えた金額6、670両、新築した家屋573棟、修繕した家屋811棟、貧困者に与えた米1万4、820俵などです。

宇多郷(現在の相馬市)では、39村中23村で発業し、16村で村を立て直しました。水利事業では、蝦沢堤(えびさわつつみ・石上地内)や宗兵衛堤(そうべえつつみ・富沢地内)などが新築されました。

仕法役所(しほうやくしょ)

藩全体にかかわる仕法の推進は、高慶の指導のもと仕法役所が行い、発業した村々では仕法掛が農民の指導にあたりました。

藩で御仕法が発業してから6年後、宇多川南岸の反町(現中野地区)に高慶の住宅を兼ねた役所を建てました。しかし、仕法の拡大に伴い役所が手狭になったため、安政4年(1857)、対岸の川原町に建て直され、約30人の係員が出仕しました。

写真 宗兵衛堤(富沢地内)

嘉永5年(1852)〜安政4年(1857)にかけて、真宗移民として入植した人たちのために造られたのが宗兵衛堤です。現在、堤防の下には石碑が建っています。

※1 いもこじとは、水桶に入れた芋を×形にしばった2本の棒で皮をとることをいう。

※2 仕法役所が明治4年に実施した調査結果による。


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