相馬の歴史講座 「御仕法」

第8回 御仕法導入の経緯

御仕法は領内の村々で一斉に発業したわけではなく、1つの村の立て直しが完了すると次の村というように、徐々に領内に拡大していきました。しかし、御仕法の第1号となった成田村と坪田村の発業までには紆余曲折がありました。

御仕法導入の経緯(1)

天保12年(1841)、藩は二宮尊徳の教えを求めて、郡代※1を藩の仕えとして出しましたが、尊徳は面会に応じませんでした。そのとき尊徳は、富田高慶を介して、藩の分度に関する資料作成を郡代に言い渡しました。

そのころ城内では、益胤公以来、藩内が一丸となって藩の立て直しを行ってきたものを、得体の知れぬ仕法の世話にはなりたくないという意見が大勢を占めていました。結局、江戸家老草野正辰と国家老池田胤直が、家臣団の考えを仕法導入へと導きました。

さっそく胤直は、過去180年間の藩の年貢米を調査して尊徳に提出したところ、これだけの資料を揃えたことに対して、尊徳は古い国柄である相馬に感嘆したそうです。

天保13年(1842)、正辰・胤直は、相次いで尊徳に面会し、二宮仕法導入を依頼しました。しかし、幕府に登用されていた尊徳は、もはや一存で仕法発業を決定できる立場にはありませんでした。尊徳が相馬中村藩を指導する許可は、天保14年(1843)、江戸幕府老中水野忠邦によって下されました。

弘化元年(1844)、尊徳は、藩が提出していた年貢米収納調査の資料から、仕法発業後60年間の藩の収入と支出を計算し、分度を決定しました。弘化2年(1845)4月には、藩主充胤も尊徳に面会して二宮仕法の導入を依頼しており、同年12月、いよいよ相馬中村藩で御仕法が発業しました。

御仕法導入の経緯(2)

御仕法発祥の地 成田・坪田

御仕法発祥の地 成田・坪田
(相馬市成田地区)

相馬領226村のうち、どこの村から御仕法を発業するかについては、紆余曲折がありました。

当初、藩の衆議では、領内でもっとも土地柄の悪い山中郷草野村を選定しました。しかし、尊徳の考え方は、土地柄の良い所をさらに良くしていくことで、悪所も段々良くなっていくというものでした。
第一選定を聞いた正辰は、尊徳の考え方を尊重することを藩に伝達しました。

藩では2度目の衆議を開きましたが、良所を良くするのは容易なこととであると考え、今度は小高郷の貧村2箇所を選定しましたが、またしても尊徳に却下されました。

そこで胤直は、地方在職の代官※2 以下を集めて、報徳仕法の道を説いたところ、奮起したのが宇多郡成田村の代官助役でした。この代官助役が成田村と隣村の坪田村を取りまとめた結果、藩もこの2村から仕法を発業していくことを決定しました。

弘化2年8月、代官助役は胤直の命を受けて江戸へ上り、正辰と共に江戸滞在中の尊徳を訪ねて嘆願した結果、ようやく2村の発業が許可されました。代官助役は、その後も尊徳を訪ねたり、仕法を実施中であった相州(現神奈川県)を視察して仕法を学びました。

その間に尊徳は、2村の仕法書を作成する一方で、多忙を極めていた尊徳は、自分の代理として富田高慶を遣わすことを決定しました。高慶と帯同の代官助役は、同年11月下旬に相馬中村藩に到着すると、さっそく高慶の指導のもと、12月1日に成田村で、4日に坪田村で仕法を発業しました。

写真 御仕法発祥の地(相馬市成田地区)

当時の成田村と隣村の坪田村(現相馬市八幡地区)が御仕法発祥の地であることを示す案内板が、成田多目的集会所の敷地内に立っています。

※1 藩の地方行政官の職名のひとつ。

※2 郡代の下で農民支配を担当した地方行政官の職名。


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