相馬の歴史講座 「御仕法」

第7回 御仕法を支えた相馬の人々

御仕法は、藩主から農民までがひとつになって推進した結果、疲弊した農村を立ち直らせることが出来ました。その中でも特に、今回紹介する斎藤高行(たかゆき)、荒至重(むねしげ)、慈隆(じりゅう)の3人は、御仕法推進に重要な役割を果たしました。

斎藤高行

弘化2年(1845)、二宮尊徳に入門した斎藤高行は、叔父の富田高慶とともに尊徳四大門人※1 の一人に数えられる活躍をしました。
高慶が病気になったとき、看病のため下野国桜町に出向いた高行は、そこで初めて尊徳に面会し、尊徳の考え方に心を動かされました。相馬中村藩の二宮仕法発業が決定し、高慶が尊徳の代理として相馬に行く直前のことでした。
一方、高行の能力を見抜いた尊徳は、高慶の抜けた穴の援助を藩主に申し出、藩主も高慶の後継者になることを望み、高行を尊徳に入門させたという経緯があります。
尊徳の死後、日光仕法の指導のため日光に戻った高慶に代わり、高行が御仕法の指導を行いました。相馬中村藩で御仕法が行われた27年間、高慶や高行はまったくの無位無報酬※2 で精勤しました。
高行は、二宮仕法の理論や心得を記した『報徳外記』や、尊徳の説教を書き留めた『二宮先生語録』を著しています。
廃藩置県後の高行は、石神村大原(現南相馬市原町区)の山中で、大原山人と号して書に親しむ生活を送りました。

荒至重

荒至重は、中村城下の和算家に入門した後、江戸へ出て関流和算家内田観斎に入門しました。わずか数年間で免許皆伝※3 を受けて相馬に戻ると、藩命で尊徳に入門しました。
5年後に帰国した至重は、御仕法掛代官次席や北郷代官を拝命し、御仕法の大きな柱のひとつである水利事業※4の推進役を担いました。
著述業にも力を注いだ至重は、自身が考案した測量器三種を用いた測量術の書『量地三略』などを著しました。
明治維新後の至重は、平町長などの要職を歴任しました。

慈隆

尊徳と慈隆の墓

尊徳と慈隆の墓

日光浄土院の住職であった慈隆は、日光仕法中の尊徳を尊敬していました。また、日光仕法に関わっていた相馬藩士たちも慈隆の存在を認めていました。そこで、慈隆は、相馬中村藩の誘いで、藩の最高顧問として迎え入れられ、幕末の相馬を支えました。
慈隆は、相馬在住17年間を通して、御仕法を政治の中心におきました。御仕法の責任者であった高慶は、慈隆を尊敬し、常に指導を仰ぎました。
藩士の師弟教育に熱心であった慈隆は、愛宕山中腹に寄宿生300人を数える私塾を開き、ときには磯部浜や霊山まで往復マラソンを敢行することもありました。
尊徳が亡くなったとき、藩は願い出て尊徳の遺髪を受けて愛宕山に葬り、慈隆が供養を営みました。慈隆が亡くなると、藩は慈隆が尊敬していた尊徳の墓の隣に葬りました。

写真 尊徳と慈隆の墓(愛宕山)

藩は、二宮尊徳が亡くなった翌年(安政(あんせい)4年/1857)に尊徳の遺髪をもらい受けると、愛宕山に埋葬し墓を建てました。明治5年(1872)に慈隆が亡くなると、藩は慈隆が尊敬していた尊徳の墓の隣に墓を建てました。

※1 ほかの2人は、『二宮翁夜話』の著者である福住正兄と、後に大日本報徳社の社長を務めた岡田淡山です。

※2 高慶や高行は、藩の要職につくことを固辞し、二宮家の援助や藩から借りた土地を耕して生活の糧としました。

※3 学んだ学問は、現代の微積分学、天文学、測量学、高次方程式等に相当します。

※4 ため池や用水路の造成や修理工事が主な事業です。


前のページへ戻る

ホーム > 相馬の歴史 > 歴史講座 > 御仕法 > 第7回