相馬の歴史講座 「御仕法」

第6回 御仕法を支えた家臣たち

御仕法の推進にあたっては、身分の上下に関わらず多くの家臣が尽力しました。今回は、相馬中村藩の政治家の双璧と言われた江戸家老草野正辰(まさとき)と国家老池田胤直(たねなお)のほか、家老熊川胤隆(たねたか)と藩士志賀直道を紹介します。

草野正辰

草野正辰の墓

草野正辰の墓
(洞雲寺・西山)

江戸家老として30万両に及ぶ負債整理のため、幕府や諸侯との交渉役を担当していた草野正辰は、二宮尊徳門下の富田高慶から、二宮仕法導入の必要性について度々進言を受けました。その後、正辰自身も何回か尊徳に面会するうちに、尊徳の考え方に心酔していきました。

天保13年(1842)、正辰の献言により尊徳を信頼した藩主充胤は、二宮仕法の導入を正辰に一任しました。さっそく正辰は、国家老池田胤直に手紙を出し、君命として家臣団の取りまとめを伝えました。その後も正辰と胤直の二人三脚で、相馬中村藩に二宮仕法導入の受け皿を固めたことが、やがて藩が復興する礎となりました。

池田胤直

池田胤直の墓

池田胤直の墓
(仏立寺・中村)

正辰からの手紙を受けた胤直は、二宮仕法が藩を救う道であることを家臣団に説きました。しかし、二宮仕法に対する不信感が根強く、導入に異議を唱える家臣が大勢を占めましたが、胤直は家臣団を説得し、藩を取りまとめました。胤直も尊徳に何回か面会しています。

"家臣多しといえども胤直のごとき稀に見る所"と言われた名家老胤直の「胤」の一字は、勤功を賞して藩主益胤から賜りました。

熊川胤隆

熊川胤隆の墓

熊川胤隆の墓
円応寺(中村)

胤直が、自分の後任として早くから才能を認めていたのが熊川胤隆です。胤隆は、正辰や胤直の遺志を継ぎ、筆頭家老として御仕法を推進しました。

一方で胤隆は、御仕法推進とは別に、現在の北海道函館市付近の開拓を行いました。国防の考えから、蝦夷地開拓について藩主の許しを得て幕府に建議し、幕府もこれを採択したことを受け、文久3年(1863)、開拓に着手しました。戊辰の役により事業を撤退するまでの間、移民100戸300人が暮らす開拓を行いました。
胤隆は、松川浦の塩田開発や養蚕にも力を注ぎました。

志賀直道

安政元年(1854)、志賀直道は、二宮尊徳に入門し
尊徳のもとで2年間にわたり二宮仕法を学びました。尊徳が亡くなると、直道は、藩主の命により、尊徳の子尊行を補佐して日光仕法を推進するため、家族で今市(現栃木県日光市)に移住しました。

明治維新後は、相馬藩権知事などを歴任しましたが、旧藩主を補佐するため東京の相馬家の家令※1となりました。

明治の文豪・志賀直哉は直道の孫にあたります。直哉は2歳〜8歳まで、相馬邸内の直道のもとで暮らしました。

※1 旧皇族や華族の家で家事を管理した人。


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