相馬の歴史講座 「御仕法」

第5回 相馬益胤・充胤父子

相馬中村藩第11代・12代藩主の益胤・充胤父子は、天明・天保飢饉で疲弊した農村の復興に尽力しました。益胤は緊縮政策を推進するなか、北陸地方から大量の移民を誘致したり、二宮仕法の導入を決定しました。家督(かとく)を継いだ充胤は、真宗移民政策を積極的に進める一方、二宮仕法を実行に移しました。

相馬益胤(ますたね)※1

文化10年(1813)、相馬中村藩第11代藩主(相馬家27代)になった益胤は、23年間にわたって藩政を治め、相馬中村藩中興の祖と仰がれました。
益胤が家督を継いだとき、藩の財政は、借金が30万両を超えるほど逼迫(ひっぱく)していました。そこで益胤は、疲弊した藩の復興策として、文化の御厳法※2 という倹約政策を実施しました。藩の格式を6万石から1万石に切り下げ、藩主から農民まで一体となって倹約に努めました。また、荒地開発と農業人口増加のため、真宗移民政策や新百姓の取り立てを行い、農家の次男や三男にも家を持たせて、一人前の農民として扱いました。
天保4年〜7年(1833〜36)は冷害※3で凶作が続きました。しかし、かねてから倹約し、備蓄していた救荒米のお陰で、領内からは餓死者を一人も出さずに済みました。
益胤は、人材育成にも力を注ぎました。藩校「育英館」を創設して武士の教育振興に努める一方で、実力のある者は、年齢や身分にかかわらず藩の要職に登用しました。このとき選ばれたのが、後に家老※4となり、御仕法導入の推進役を担った草野正辰(江戸家老)や池田胤直(国家老)でした。
益胤は、両家老からの建言により二宮仕法の導入を決断しましたが、藩が御仕法を発業する半年前に亡くなりました。

相馬充胤(みちたね)※5

相馬充胤揮ごう「報徳額」(個人蔵)

相馬充胤揮ごう「報徳額」
(個人蔵)

天保6年(1835)、16歳で12代藩主(相馬家28代)になった充胤は、慶応元年(1865)までの31年間、藩政を治めました。
充胤は、藩の財政を立て直すため、真宗移民の積極的な受け入れや倹約令を出すなど、財政再建に懸命でした。
天保13年(1842)、幕府に登用されて江戸に詰めていた尊徳に面会した正辰は、二宮仕法が藩を救う道であることを確信しました。正辰からの建言に、充胤も二宮仕法の導入を決断し、積極的に推進していくことを正辰に命じたことで、藩の二宮仕法導入が具体的に動き出しました。
充胤自らも尊徳に面会し、仕法を依頼するなどした結果、弘化2年(1845)、藩の御仕法は成田村と坪田村(現相馬市八幡地区)から発業することになりました。
御父益胤の遺志を引き継いだ充胤は、御仕法を実行に移すことができました。
藩主から農民まで、上も下もなく農村の立て直しに取組んだ結果、相馬の御仕法は、全国の二宮仕法の中でもっとも成功を収めたと言われています。

※1 寛政8年(1796)生まれ〜弘化2年(1845)没

※2 文化14年(1817)から実施。徹底的した緊縮財政により、藩主自らも一汁一菜の粗衣粗食を実践しました。

※3 天保飢饉

※4 家老は、藩政を統括し、実質的に藩政を行う役職。

※5 文政2年(1819)生まれ〜明治20年(1887)没

写真の解説

相馬充胤揮ごう「報徳額」(個人蔵)

藩主相馬充胤が揮ごうした「報徳」の額は、藩全体に関わる仕法の推進を行う仕法役所に掲げられていました。


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