相馬の歴史講座 「御仕法」

第4回 富田高慶

相馬中村藩士の富田高慶(文化(ぶんか)11年〜明治23年/1814〜1890)が二宮尊徳に入門を果たさなかったならば、あるいは、相馬の地に御仕法が取り入れられることはなかったのかもしれません。今回は、尊徳と並び相馬の大恩人である富田高慶を紹介します。

富田高慶

富田高慶は、文化11年(1814)に相馬中村藩士の次男として中村に生まれました。兄は「奥相志」や「衆臣家譜」※1 の編さんをした斎藤完隆です。
天明飢饉(1783〜84)から40余年が過ぎ、真宗移民政策※2 の開始からは20年近くが経過しても、いまだに逼迫している藩の財政を心配した高慶は、17歳のときに藩の復興を志し、修学のために江戸へ出ました。
苦学十年、復興策を見出せずに悩んでいたとき、偶然に二宮尊徳の活躍ぶりを耳にした高慶は、尊徳こそが自分が求めていた師であることを直感すると、さっそく野州芳賀郡物井村(現栃木県二宮町)に尊徳を訪ねました。
しかし、尊徳に面会を拒否され続けた高慶は、半年後にようやく入門を許されました。このとき、次のようなエピソードが残されています。
尊徳は高慶に"豆"という字を書かせると、「その豆を馬に食べさせてみよ」と言いました。しかし、紙に書いた豆を馬が食べるはずがありません。
つまり、尊徳が高慶に言いたかったことは、学問や理屈だけで人を救うことは出来ず、至誠と実践が大切であるということでした。

その後の高慶

尊徳のもとで勉学に励んだ高慶は、やがて尊徳四大門人の筆頭に上げられるほど、尊徳の信頼を得ました。  
やがて高慶は、藩の江戸家老草野正辰たちに二宮仕法を導入することを進言しました。その後、正辰たちも尊徳に面会し尊徳の考え方に心酔していきました。藩主充胤も仕法導入の許可を得るため、尊徳に面会しました。
高慶が尊徳に入門してから7年が過ぎた弘化2年(1845)、いよいよ相馬中村藩で御仕法が始まりました。
多忙を極めた尊徳は一度も相馬へ来ることはなく、高慶が尊徳の代理を務めました。  
人の和を大切にした高慶の指導方針で進められた御仕法は、全国に導入された二宮仕法の中で、もっとも成功を収めたと言われています。

報徳論と報徳記

報徳記原本

報徳記原本

高慶が報徳思想を分かりやすくまとめた「報徳論」の中に、報徳思想の四本柱(至誠・勤労・分度・推譲)の教えが出てきます。尊徳の考え方を分かりやすくまとめたのは、実は高慶の発案だと言われています。しかし高慶は、自分の功績であっても、すべてを尊徳の功とした謙虚で堅実な人物でした。
「報徳記」は、高慶が尊徳の生き方や考え方を8巻編成に著したもので、もっとも古い尊徳の伝記になります。安政3年(1856)10月に尊徳が亡くなると、高慶は、早くも11月には報徳記を成稿しました。
執筆直後はごく限られた者だけが閲覧可能でしたが、明治13年に元藩主充胤が報徳記を明治天皇に献上しました。明治16年には宮内省版が全国の知事職以上の明治政府高官に配付されました。明治23年に、ようやく一般人向けの報徳記が刊行されました。
今日出版されている尊徳関連の書籍の多くは、明治23年刊行の報徳記が典拠になっています。尊徳のイメージは、報徳記によって形づくられたと言えます。
 
※1 『奥相志』は相馬地方の地誌。『衆臣家譜』は藩の家臣の系図を記したもの。
※2 北陸地方の農民に田畑や家を与えて定住させた政策。

写真の解説

報徳記の原本 (相馬和胤氏所蔵/相馬市有形文化財)

相馬中村藩出身で二宮尊徳の高弟である富田高慶が、尊徳の死後に著した尊徳の伝記です。原本は、昭和60年5月7日、相馬市有形文化財に指定されました。


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