相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

最終回 第12回 戊辰戦争と藩士の土着

慶応(けいおう)3年(1867)、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は大政奉還(たいせいほうかん)を行いましたが、翌4年戊辰戦争(ぼしんせんそう)が起こり、戦禍は中村藩にも及び出兵しなくてはならなくなりました。
13代藩主誠胤(ともたね)は、藩論を尊王に統一し、官軍と奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)軍との板ばさみにあって、やむをえず同盟軍に加わりました。藩の事実上の参謀は僧慈隆(じりゅう)と富田高慶(とみたこうけい)であったといわれています。

官軍の墓(慶徳寺)

▽官軍の墓(慶徳寺)

6月15日、官軍が平潟へ上陸すると、中村、仙台、米沢藩などが兵を出して応戦しましたが、戦況が不利となり、泉、湯長谷(ゆながや)が落城し、7月13日夜には平も落城する始末で、仙台などの兵がどんどん退却して来ました。間もなくして、官軍は藩境に迫り、北からはさらに仙台藩兵が中村城下に進駐してきて、中村藩は最大の窮地に追い込まれました。
しかし、8月3日夜、城内の兵具蔵がたまたま火事にあい、火薬が爆発し、その大音響に驚いて仙台藩兵が北藩境まで逃げ出すという珍事がおこりました。加えて同夜は大雨が降り、降伏の内意を官軍総督府のところへ陳述に行く一行の中村脱出がいっそう容易であったという後日談も伝えられています。
8月6日には中村藩の官軍への謝罪降伏が聞き届けられ、7日に官軍の四条総督は中村城に入り、充胤(みちたね)・誠胤父子は長松寺(ちょうしょうじ)に謹慎しました。21日にはこれも解除され、10月13日には、城地本領ともに安堵されました。

維新後、藩主は版籍奉還(はんえきほうかん)を行ない、東京に出て華族(かぞく)に列することになりましたが、領地に残る旧藩士(士族)は常職がなくなり禄を失い、路頭に迷いかねない情勢となりました。このとき、中村藩では自ら田畑を耕して生活する土着(どちゃく)制度を設け、山中郷(さんちゅうごう)を除く各村々に士族を帰農させました。
明治4年(1871)8月、城下士族の総登城を命じ、趣旨説明を行い、数日後に領内141カ所の候補地について抽選を行い、一戸につき田9反歩、畑若干歩を与え、希望によっては交換も認めるという形で進められ、翌年には、441戸の士族(しぞく)すべてが帰農しました。

これより先の明治2年6月22日、藩主誠胤は中村藩知事となり、10月16日に朝廷の命で、これまでの執政(しっせい)を大参事・権大参事に改め、参政を小参事・権小参事に改めることとし、10月26日には、政治・学校・民政・会計・刑法・監察・軍務・安民などの局を設け、職制歳給の制度をつくりました。
翌3年には、明治政府が諸藩に命じて改革を行わせていますが、中村藩はこれより先に、僧慈隆や富田高慶の尽力によって土着等の改革を進めていました。
このようにして武士の時代は終りを告げ、世は明治という新しい時代に向かって進んで行きました。


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