相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第11回 相馬の交通・交易

浜街道松並木

▽浜街道松並木
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城下町中村と江戸を結ぶ幹線街道は二つありました。一つはいわゆる「相馬街道」(奥州西街道 おうしゅうさいかいどう)といわれ、奥州道中(おうしゅうどうちゅう)と相馬領を結んで江戸に至るもので、もう一つは水戸を経由する「東海道(あずまかいどう)」(奥州浜街道)でした。ただし、近世期、五街道以外には正式な名称はなく、一般には、行先を示して「相馬路」、「相馬通り」と呼ばれることもありました。

西街道は中村藩の参勤交代(さんきんこうたい)の指定街道で、阿武隈高地を斜めに横断して八木沢(やぎさわ)を経由し、奥州道中に合流していましたが、後年、相馬産の塩が二本松や会津方面に運ばれたことから「塩の道」ともいわれています。
浜街道は、慶長(けいちょう)9年(1603年)以降に整備され、一里塚が築かれ、街道の両側には松が植えられました。領内の南は熊川で北の岩井(黒木)まで所々に駅をおき、横道と称する村道がめぐらされていました。宿駅は約2・3里ごとに置かれ、駅ごとに検断(けんだ・けんだん)を設け、公役伝馬や商業貨物の受継ぎなどが行われ、さらに近くの各領の問屋と連絡をとり、旅人の宿泊の世話などもしていました。

相馬領内の宿駅は、熊川(くまかわ)・新山(しんざん)・長塚・高野(こうや)・小高(おだか)・原ノ町・鹿島・中村・岩井の9か所ありました。宿駅には駄馬が置かれ、40貫(150キログラム)の荷を積む本馬や人を乗せたり本馬の半分の荷物を積む軽尻(からじり)があり、運賃は1里単位で、本馬で40文、軽尻(からじり)で27文に定められていました。

幕末期、江戸の飛脚(ひきゃく)情報は定飛脚問屋島屋佐右衛門との契約によって、岩城(いわき)経由で中村城下の商人に2日と6日の月6度運ばれていました。

当時の旅行者は、往来切手を所持して関所を通りましたが、伊勢参りや琴平参りなどでも同じでした。また、相馬領では、百姓まで、一夜でも泊まりがけで領外に旅行する場合は、その村の肝入(肝煎・きもいり)に届けて許可を得る必要があり、他領民を泊める場合も、村役人に届け五人組にも連絡しなければなりませんでした。

海運は、江戸と原釜(はらがま)の間に航路があって、年貢米が江戸に運ばれ、蔵元(くらもと)を通じて販売されていました。幕末には、城下の吉田屋が藩と協同で大きな船を造り、原釜を拠点に江戸や松前(まつまえ)などと結んで、盛んに交易を行っていました。

鉄については、国産のものでは藩内の需用が満たせないことから、南部野田鉄の輸入を行っています。藩の主な港は原釜と請戸(うけど)で、港には鉄宿(てつやど)があり、荷揚げされた鉄は鉄問屋によって藩内外に捌かれていました。

原則的には、給人郷士足軽百姓とも商売はできませんでしたが、町人の中から商売を営む者がだんだんと増えていきました。物を売るには店売りと振り売り(ふりうり)とがありました。商う品も決まっており、何によらず穀物の売買は厳禁であったばかりでなく、日用必需品以外の売買も厳しく制限されていました。


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