相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第10回 相馬の産業・商業

田代駒焼登窯

▽田代駒焼登窯
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相馬駒焼(こまやき)は、藩窯(はんよう)として発達してきました。窯元田代家の伝えによれば、寛永(かんえい)7年(1630年)の将軍上洛の時、上洛に同行した2代藩主義胤(よしたね)が京御室焼(おむろやき)の風雅さに感じ、田代家の先祖源吾右衛門(げんごえもん)を野々村仁清(ののむらにんせい)について学ばせました。源吾右衛門はよく技術を習得し、清治右衛門(せいじえもん)と改名して帰国し、城下中村に窯を築いて茶器を中心に製作され、製品は藩の贈答などに用いられました。また、製陶技術は、周辺の諸藩の窯に大きな影響を与えたといわれています。

元禄(げんろく)ごろ(1688〜1704年)標葉郡大堀村※で大堀焼(おおぼりやき)ができるようになりました。製法は城下中村の田代駒焼で学んだとされていますが、大堀焼は自由に販売され、ひろく庶民に用いられやすい日用品が多く、幕末期には、陶業に関わる戸数が大堀・小野田・井手を合わせて80余戸に達し、江戸に向けて陶器1千俵を送り出していたといわれています。

鉄砲製造は、正保(しょうほう)(1644〜48年)以降、鉄砲張町(てぽはりまち)に住んだ市田(いちだ)や国友(くにとも)姓などの鉄砲職人によって造られ、秋田の佐竹氏などにも献じられています。

製塩は、元和(げんな)元年(1615年)に下総行徳(しもふさぎょうとく)の鈴木玄蕃(げんば)が和田村に来て、松川浦で食塩の製法を教えたことに始まったと伝えられています。製法は次第に浦外に、さらに領内の海岸にもひろく広がり、塩は、遠く福島、二本松、会津へも送り届けられました。

松川浦に残る塩水貯蔵岩穴

▽松川浦に残る塩水貯蔵岩穴

産馬は軍用・農用・野馬追用として奨励され、飼われていました。山中郷が領内第一の馬産地で、北山中(さんちゅう)の馬は南部馬に似ていて農用小荷駄に適し、南山中の産馬は三春馬に似ていて乗馬に適していたといわれています。

農業は、藩が積極的な勧農政策をとり領内の隅々まで開田が進み、元禄期には五穀の収穫も最盛期を迎えましたが、その後次第に衰え、天明(てんめい)の凶作で荒廃することになりました。城下の米は原釜(はらがま)から積出され、他郷産出の米は各浜の御蔵(おくら)から積出され江戸に送られました。

漁業は、原釜・松川・尾浜(おばま)・磯部・蒲庭(かばにわ)などで行なわれていましたが、規模は小さく、漁獲物を他所へ大量に出すことはありませんでした。鮭漁は宇多(うだ)川・真野(まの)川・新田(にいだ)川などで行なわれていました。

江戸時代も後期になると、織物として「相馬縮(そうまちぢみ)」が藩士の婦女によって副業的に生産され、鉄は南部から買い入れ、原釜や請戸(うけど)に荷揚げして、鉄問屋が藩内外の鍛冶屋に斡旋し、農具にして売るという小規模な産業が生まれました。

なお、中村城下四町の上町(うわまち)・田町・大町・宇多川町には、苗字帯刀(みょうじたいとう)御免を得た士分格の特権商人もおり、軒を連ねて自給を前提とした小規模ながらも商工業が営まれていました。
幕府への献上品として、塩硝(えんしょう)のほか干鯛、串海鼠(くしこ)、鶴、雁、鮭があげられていますが、産業に結びつくものはなかったようです。

※標葉郡大堀村 現在の双葉郡浪江町の一部


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