相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第9回 相馬の寺社

相馬中村神社

▽相馬中村神社
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相馬には際立って大きな寺社はありませんが、他地にない信仰の形態を見ることができます。
藩主相馬氏は氏神(うじがみ)を妙見(みょうけん)とすることから、城内に妙見を祀りました。相馬野馬追(そうまのまおい)は、この氏神妙見の祭礼で、生き馬を神に奉げる日本のまつりの原型を伝えています。社殿は、妙見宮として寛永(かんえい)20年(1645)に創建され、別当の歓喜寺(かんきじ)が妙見宮に奉仕し、相馬氏および領内守護の祈願などを行っていました。

坪田にある八幡宮の社殿は、元禄(げんろく)8年(1695)5代藩主昌胤(まさたね)によって再興・造営されたもので、神池や神門を備え、境内全体は中世の城館のような感じをいだかせています。
同じ坪田地内に都玉(くにたま)神社があります。昌胤の子で早世した都胤(くにたね)を祀った神社で、吉田神道(よしだしんとう)の典型的な建物といわれています。

昌胤は吉田神道に帰依し、吉田家より諸伝授を受け自ら行法も行いました。8代藩主恕胤(もろたね)も同様に帰依の念が厚く、後年、吉田神道の正統は相馬の地に引き継がれ、この地で絶えたと伝えられています。
養真殿(ようしんでん)は吉田神道による社殿で、昌胤が城内に創建しました。隠居と同時に幾世橋(きよはし=双葉郡浪江町)の北原御殿に移され、死後、「養真殿」の額は高松の都玉神社の神庫に納められました。恕胤の代になって、再び城内に養真殿を祀りました。
昌胤はまた、中村城の四方固めとして坪田・八幡、馬場野・葉山、小泉・天王、黒木・諏訪の4神社を整備し、小泉の北山を京都の東山になぞらえて、多くの寺院堂塔を並べさせました。

涼ケ岡八幡神社

▽涼ケ岡八幡神社
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藩主相馬氏の菩提寺(ぼだいじ)は、曹洞宗同慶寺(どうけいじ)で小高にありますが、昌胤・7代藩主尊胤(たかたね)の墓は浪江の浄土宗興仁寺(こうにんじ、現真言宗大聖寺)にあります。
ほかに、初代藩主利胤(としたね)夫人の菩提のため、明暦(めいれき)元年(1655)、臨済宗長松寺(ちょうしょうじ、西山・現曹洞宗洞雲寺)が創建され、藩校ができるまで藩の学問所の役割を果たしました。また、承応(じょうおう)2年(1653)には、2代藩主義胤(よしたね)の冥福を祈って巴陵院蒼龍寺(はりょういんそうりゅうじ)が建てられました。

そのほか、かつて小高にあった多くの社寺が城下町中村およびその近くに移されましたが、中には、鎌倉時代に相馬氏と一緒に下総(しもふさ)から移ってきたものも多く含まれていました。
文化年間(1804〜1818)、11代藩主益胤(ますたね)の時代に始められた相馬の移民政策によって、真宗門徒(しんしゅうもんと)の農民の移入で戸数が増え、菩提寺の必要が認められ正西寺(しょうさいじ)などの浄土真宗の寺院が新たに開山されました。

庶民のための御国(相馬)三十三所の観音、宇多三十三所観音巡拝の整備が行われましたが、昌胤は打宅雲泉(うったうんせん)に命じて御詠歌をつくらせています。
修験道(しゅげんどう)寺院としては、京都聖護院(しょうごいん)に属する本山派(ほんざんは)の上之坊(うえのぼう)と羽黒派(はぐろは)に属する日光院(にっこういん)の二寺がありました。共に、祈祷などを行なって村々に配下の小寺院を持ち、広く民間に勢力を及ぼしていました。


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