相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第8回 中村藩の学問と士民の文化

中村藩は、長松寺(ちょうしょうじ)を学問所に定め、藩主がしばしば聴講に出向いたので、家臣諸士も上下の区別なく競ってここに集まりました。住職が師範を務め、寺内は学校同様となり、藩の学問の発展に大きな貢献をしました。

文政(ぶんせい)5年(1822)、人材育成の立場から正規の学校が必要となり、11代藩主益胤(ますたね)は会所(かいしょ)の北隣り(第一小学校の南)に藩校「育英館」(いくえいかん)を創設しました。初代の校長には海東驥衡(かいとうきこう)、二代目校長には錦織晩香(にしこりばんこう)があたりましたが、2人はともに昌平校(しょうへいこう)に学んだ優秀な学者でした。

教授方法は、素読から講義を授け、教科書には小学、四書、五経、十八史略、日本外史、国史略などが学力に応じて用いられ、筆算、弓馬、槍術、柔術などを希望する者は、それぞれ専門的に学ばされるというものでした。

さらに幕末になると、藩の客僧慈隆(じりゅう)和尚が金蔵院(こんぞういん)に子弟を集めて日夕講義を行いました。慈隆は日光・浄土院の院主でしたが、非凡な才が認められ、藩政顧問として相馬に招かれました。彼は「学校最先(がっこうさいせん)」を持論に洋式訓練をとり入れ、スパルタ式で生徒を教育しましたが、明治4年の廃塾まで生徒の数は増える一方で、門下からは多くの俊才が輩出しました。 また、一般庶民の間にも寺子屋などによる教育が普及し、近代の学校教育へと発展していきました。

 

松川十二景和歌色紙帖

▽松川十二景和歌色紙帖
写真は「紅葉岡」 詳細ページ>>

士民の文化については、中村藩の和歌連歌は、慶安(けいあん)元年(1648)に2代藩主義胤(よしたね)が猪苗代玄盛(いなわしろげんせい)を招いて藩の連歌師としたことから盛んになり、やがて元禄(げんろく)時代の5代藩主昌胤(まさたね)の代に最盛期を迎えました。昌胤は、歌道系譜に名を残す文人大名として知られました。
昌胤はまた、松川浦(まつかわうら)に新名所を選定したり、城の北方に京都東山になぞらえて寺社を集め北山を整備しました。

能や茶道も江戸時代の中ごろまで盛んに行なわれましたが、それは大名間の交流に用いられ、一般藩士や庶民にはほとんど普及しませんでした。

庶民一般が茶を飲むようになったのは、天和(てんな)・貞享(じょうきょう)ころ(1681〜1688)からといわれ、昌胤が坪田・八幡社周辺に茶の苗を植えさせたのが相馬の飲茶のはじまりといわれています。

絵画は、寛永(かんえい=1624〜1644)のころ、狩野永信(かのうえいしん)の弟子の松本信益(まつもとしんえき)が絵所預り(えどころあずかり)となっています。馬の絵に秀で、相馬駒焼の駒絵は信益の指導よるもであったといい、その子、俊平も絵所預りとなっています。相馬の絵はみな狩野派(かのうは)で、志賀如山や雪庭などの画人もおり、歴代藩主の中では、9代藩主祥胤(よしたね)が優れた絵を残しています。

能書家としては、3代藩主忠胤が知られています。藩士では、中村庄八郎、中津吉兵衛(朝睡)、門馬治経、脇本嘉明、斎藤高行、高力民蔵などがあげられます。

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