相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第7回 大掛かりな藩政改革

中村藩では、天明(てんめい)の凶作の直後から、倹約(けんやく)、荒地開墾(かいこん)、養育料給付による人口増加策など、いろいろな政策が取り入れられました。

養育料の給付は、天明(てんめい)6年(1786)から実施され、文化元年(1804)に財政困難で一時中止され、文政(ぶんせい)5年(1822)11代藩主益胤(ますたね)の時に給付率を高くして復活しました。農民には、三男三女に米10俵と金2分の割合で5年分割で給付しました。こうした政策のために藩の借金は次第にかさみ、その額も20万両をこえ、利子は1年の年貢を当てても足りない状況になりました。

倹約令はあまり効果が現れず、益胤は文化14年(1817)9月14日城下在住の侍の総登城を命じ、藩政の大改革「文化の御厳法」(ぶんかのごけんぽう)を宣言しました。これに先立ち益胤は、文化13年12月から文政4年(1821)までの5年間、幕府に願って6万石の格式を1万石に切り下げた生活を行ない、自ら範を示していました。

佐藤孟信の自画像

▽佐藤孟信の自画像
益胤のときの家老のひとり

このような努力の成果により、天保(てんぽう)4年(1833)には、大凶作に遭いましたが、貯えておいた米穀の放出で一人の餓死者も出さずに乗り切ることができました。

しかし、この凶作によって貯えは底をつき、益胤は再び臣民を励まして厳法を奨励し、さらに10年間の継続を命じて復興に当りました。

藩はこのような窮地に際して、藩主益胤が自ら模範を示し、佐藤孟信、紺野知義、今村秀興、草野正辰、池田胤直(図書)のようなすぐれた人材を家老に抜てきして事業を推進しました。

藩では、のちに倹約という消極策にかえて、移民誘致と二宮仕法(にのみやしほう)の二つの積極策をとりさらに荒地開墾、人口増加の実績をあげることに努めました。

移民誘致は、文化7年(1810)ころから明治2年(1869)ころまで継続して行われ、その結果、加賀(かが)、越中(えっちゅう)、因幡(いなば)などから多数の真宗門徒(しんしゅうもんと)が相馬の地に移って来ました。

藩財政は徐々に上向きとなってきましたが、盛んなころの状態にはなかなか戻りませんでした。そんなとき導入されたのが二宮尊徳(にのみやそんとく)の教えに基づく「興国安民(こうこくあんみん)の法」、いわゆる二宮仕法(御仕法)で、これは至誠(しせい)・勤労(きんろう)・分度(ぶんど)・推譲(すいじょう)という基本理念※に基づいて経済の復興と安定を図り、民情を豊かにするという教えでした。

成田・坪田地区の田園風景

▽成田・坪田地区の田園風景
相馬で最初に御仕法が行われた

御仕法は、弘化(こうか)2年(1845)に坪田(つぼた)、成田(なりた)の両村から始められ、明治4年(1871)まで27年間行なわれました。これには12代藩主藩主充胤(みちたね)をはじめ、家老の草野正辰(くさのまさとき)、池田胤直(いけだたねなお)たちの努力、尊徳の高弟富田高慶(とみたこうけい)や斎藤高行、荒専八(至重)などのすぐれた門人たちによる一致協力した農民たちへのよき指導がありました。
その結果、相馬の仕法は、他地にはみられない大きな成果をあげたといわれています。

 

※二宮仕法は、相馬までは御仕法といわれている。
・至誠(しせい)=まっすぐで思いやりがある心
・勤労(きんろう)=熱心に働くこと
・分度(ぶんど)=自分にふさわしい生活をすること
・推譲(すいじょう)=余分を将来のために蓄えたり、社会のために譲ること

関連ページ 相馬の歴史「御仕法」 >>


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