相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第6回 藩政の展開

餓死供養碑(新沼観音堂前)

▽餓死供養碑
(新沼観音堂前)

元禄(げんろく)9年(1696年)、5代藩主昌胤(まさたね)は領内検地を行い、11年に終了しましたが、その結果13万5954石の総石高となりました。かつてない大きな収穫高を記録し、表面的には藩の財政に相当の余裕ができたように見えました。
しかし、それとは裏腹に家臣や領民の生活は貧苦のみちをたどるようになり、人口も元禄15年を頂点に下降しはじめました。

領民の疲弊は、宝暦(ほうれき)5年(1755年)の凶作と翌年の飢饉(ききん)に表れました。凶作の減収は4万6435石におよび、飢饉で藩から粥の施しを受けた窮民は、2万3994人にのぼりました。
家臣団もまた減知をこうむり、百石以上の士は半減、以下の士もまたそれぞれ知行を借上げられることとなりました。

明和(めいわ)6年(1769年)には中村城下に疫病が流行して多くの死者が出ました。家中の減知はこの年さらに厳しくされ、百石取りの士は5人扶持(ふち)を給されて城中の勤番を免除され、役職にある者は百石につき8人扶持を給されるというものでした。
郷村の支配機構も緊縮され、安永(あんえい)9年(1780)には各郷に置かれていた代官が2郷1人に半減(天明(てんめい)2年に各郷1人制が復活)されました。

天明3年(1783)の大凶作は、翌4年に東北諸藩に大飢饉を引き起こしました。中村藩も例にもれず、死者は約1万人にのぼり、肉親あい食む惨状であったといわれています。追い討ちをかけるように、天明4年12月には江戸中屋敷(麻布)が類焼するという災害にもあいました。
天明4年12月に9代藩主祥胤(よしたね)は、連年の凶作と飢饉の難局を打開するための資金として、幕府に1万両の拝借金を願い出ました。一度は却下されましたが、餓民救済のため再度願い出て、半金の5000両が許可されました。しかし、同日祥胤は、翌年5月まで江戸城出仕を停止する謹慎処分を受けました。

藩主祥胤の願文

▽藩主祥胤の願文
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天明の大飢饉とそれに伴う疫病によって、被災はさらに拡大し、1万6000余人が死亡し、領内の人口は一時3万4000人ほどに減少しました。
これに加えて、いわゆる間引き(まびき)が流行したために、赤子の出生・生育が思うように進まない状況に陥りました。

祥胤は、その対策として天明6年に領内の三男三女以上の子どもについて、養育料を給与することとしました。
この赤子養育料の制は、東北諸藩で採用されましたが、中村藩では、農民人口の回復増加によって貢租の増収をはかり、藩財政を好転させようとする徹底したものであったといわれています。


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