相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第5回 相馬氏存亡の危機

相馬野馬追祭(2007年7月23日)

▽相馬野馬追祭(2007年7月23日)

中村城跡大手門から出陣する
総大将相馬陽胤(きよたね)氏

相馬氏は、常に安全な状態で家系を保ったわけではありません。幾度とない危機を乗り越えて明治を迎え、今日なお、相馬野馬追(そうまのまおい)の総大将として伝統行事を主宰しています。

中・近世史のなかで大きな危機が何回かありましたが、そのひとつは、伊達氏(だてし)との激しい争いにおける危機でした。

天正(てんしょう)17年(1589年)5月、伊達政宗(だてまさむね)の会津(芦名氏・あしな)攻めに先立っての宇多郡北部の侵攻によって、駒ケ嶺(こまがみね)・新地の2城が落とされ、やがて芦名氏も滅び、政宗に従わないのは、中・南奥羽で相馬氏1人となり、戦局は絶体絶命の状態にありました。

辛くもこの危機は、豊臣秀吉の小田原攻略と奥羽仕置(おううしおき)によって脱することになります。天正18年夏、相馬義胤は小田原の秀吉の下に参陣し、12月宇多・行方・標葉三郡4万8700石を安堵する朱印状(しゅいんじょう)を賜ります。一方政宗は秀吉がよびかけた惣無事(そうぶじ)※1に違反して芦名氏を破って領国を拡大したり、小田原に遅参したことを理由に、奥羽仕置によっておよそ48万石に減封されました。

二つ目の危機は、関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の後に訪れました。慶長(けいちょう)5年(1600)天下分け目の関ヶ原の戦いがおこりました。義胤(よしたね)は兵を抑えて出陣せず、戦いの決着がついたあとに上杉領の安達郡を攻めましたが、失敗に終わりました。慶長7年5月、野馬追祭が終り、牛越(うしごえ)城で義胤が家臣を集めて祝宴を張っているところへ、常陸(ひたち)の佐竹義宣(さたけよしのぶ)から書状が届きました。書状によれば、「自分(義宣)は、石田三成(いしだみつなり)へ加担したことで常陸80万石を没収されて、秋田に移される。相馬も領地没収となったので、親戚の縁で秋田に一緒にいけば、佐竹領の中から1万石分与したい」、というものでした。

評定の結果、義胤は三春領(みはるりょう)の大倉に隠居し、子息利胤(としたね)は幕府に再興を訴えるため江戸に上りました。訴えが聞き入れられ、10月には旧領の全てが安堵され、この危機も脱することができました。

相馬大膳亮義胤遺言状

▽相馬大膳亮義胤遺言状
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三つ目の大きな危機は、それから約50年後におとずれました。慶安(けいあん)4年(1651)に2代藩主大膳亮義胤(だいぜんのすけよしたね)が、32歳で死去しました。家督を決めないままでの急死によって、相馬家は断絶の危機に陥りました。内藤伊賀守忠重(老中・義胤の義父)の仲立ちにより、上総国久留里城主土屋利直(つちやとしなお)の二男の直方(なおかた)を急きょ養子とすることで、またまた危機を脱することができました。

これまでは、末期養子(まつごようし)※2は認められていませんでしたが、幕府に家綱(いえつな)の将軍宣下(せんげ)の慶事があったり、由井正雪(ゆいしょうせつ)の乱などに関連しての牢人(ろうにん)問題が見直されたりして、末期養子制度の改善が図られました。その結果、相馬家から出されていた末期養子願が事実上認められ、承応(じょうおう)元年(1652)2月に跡目相続(あとめそうぞく)を済ませた直方が、相馬家に入って勝胤(かつたね、のちに忠胤)と名乗り、名君と仰がれました。

この後は、藩政も確立し、世情が安定していったように、相馬氏にも際立った危機はなく、幕末に至りました。

※1 大名間の私闘を禁じたもの
※2 家の断絶を避けるため、武家が危篤の際に急に願い出する養子


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