相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第4回 藩支配の確立

相馬昌胤知行宛行状(金沢家文書)

▽相馬昌胤知行宛行状
(金沢家文書)
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中村藩は、幕府の支配体制にならって城下町中村を政治、軍事、経済の中心地とした中央集権の支配体制を敷きました。そして、領有する宇多(うだ)、行方(なめかた)、標葉(しねは)の3郡を最終的に7郷(宇多、北、中、小高、北標葉、南標葉、山中(さんちゅう))に分割して各郷に陣屋を設け、代官、郷目付、吟味役が出向して配下の村々を治めました。

中村城下には、「御家中(ごかちゅう)」と呼ばれる武士がおり、各村には「在郷給人(ざいごうきゅうにん)」と呼ばれる武士がいました。古くは、すべて「侍」または「給人」と呼ばれていましたが、参勤交代のはじまった元和(げんな)年間(1615〜24年)ごろから府下(ふもと)在住の給人を家中と呼び、在村の給人をそのまま給人と呼んで区分するようになりました。

家中は藩侯直属で常時藩務を勤め、在郷の給人の上に置かれました。給人は普段は田畑を耕作し、随時郷村行政にあたりました。さらに給人は古給人(こきゅうにん=本知給人)、中切(なかぎり)給人、新発(しんぽち)給人などと呼ばれることもありました。
また、知行(ちぎょう)、俸禄(ほうろく)については、明暦(めいれき)(1655〜58年)以前は、すべて定免法(じょうめんほう)による地方知行制(じかたちぎょうせい)をとっていましたが、万治(まんじ)元年(1658年)になって28石以上の家中には藩の米蔵より支給し、27石以下の在郷の給人には引き続き自家耕作をさせる地方知行制をとりました。扶持(ふち)取りという制度もできて、一人扶持には1か年米6俵(当時の1俵は3斗2升)が支給されました。

旧中村城時鐘

▽旧中村城時鐘
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禄高制の基礎である農業は、農民一揆が一度も無かったことから、大きな弊害が無く平穏に歩み続けてきたといえます。実際、四公六民の免合(めんあい)などによって公平な年貢賦課が行われ、必要な農業土木も逐次施行さるなど努力の効果もみられます。

藩政確立にあたって、最も力を尽くしたのは、2代藩主義胤(よしたね)の養子となり、承応(じょうおう)元年(1652年)にその跡を継いだ3代藩主忠胤(ただたね)でした。
忠胤は、時鐘(じしょう)をつくって四民の就業の利便を図り、会所(かいしょ)を設けて政務を改革するとともに、検地を行ない、田制を確立して農政全般にも意を注ぎました。
また、禄高の改革を断行するなど士民の待遇改善にも努めました。世にいうところの「三百一本の槍」とは、忠胤の代、古給人の301人に与えられた槍のことで、栄誉なこととして子々孫々受け継がれました。

軍事面では、寛文(かんぶん)5年(1665年)には、軍師大江又左衛門を江戸から招いて兵制を改革し、これを氏神祭礼野馬追の一部に取り入れて実質的な訓練を行ないました。
なお、江戸における相馬家の屋敷は、上屋敷は桜田、中屋敷は麻布、下屋敷は角筈(つのはず)にありました。


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