相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第3回 相馬氏の系譜

相馬藩主像

▽相馬藩主像
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相馬氏は、桓武平氏(かんむへいし)より出た平将門(たいらのまさかど)を遠祖とし、直接の祖を下総国(しもふさのくに)の相馬師常(もろつね)としています。師常が平将門の後裔の相馬師国(もろくに)の養子となって相馬氏を継ぎ、下総国相馬郡を領したことに始まると伝えています。

師常は、源頼朝(みなもとのよりとも)の信任が厚かった千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の二男で、文治5年(1189)に、父常胤とともに奥州合戦(おうしゅうかっせん)に従軍して戦功をあげ、本領のほかに陸奥国行方郡(むつのくになめかたぐん※1)を与えられました。その後、胤村(たねむら)の五男師胤(もろたね)が行方郡に多くの所領を譲り与えられ、元亨(げんこう)3年(1323)にその子重胤(しげたね)が、一族の岡田氏(おかだし)や大悲山氏(だいひさし)とともに行方郡に下向して奥州相馬氏の祖となりました。

重胤は、嘉暦(かりゃく)元年(1326)、行方郡小高(おだか・南相馬市小高区)に館を構えて移り住み、以後、奥州相馬氏はここを拠点に所領の拡大をはかりました。

南北朝(なんぼくちょう)の内乱では北朝側につき、重胤は建武(けんむ)3年(1336)に鎌倉で討ち死にしましたが、その子の親胤(ちかたね)らはその後も一貫して北朝側につき、宇津峰(うつみね)や霊山(りょうぜん)に拠点を持つ南朝側とたびたび激しい攻防を繰り返しました。内乱終結のあと、南奥州支配の強化をはかる鎌倉府に対抗するため、応永(おうえい)17年(1410)には、諸根・好島・白土・岩城・標葉・楢葉(もろね・よしま・しらど・いわき・しねは・ならは)などの周辺の諸氏と磐城五郡一揆(いわきごぐんいっき)を結成しました。

天文(てんぶん)9年(1540)以降は、伊達氏(だてし)と激しい戦いを続けましたが、天正(てんしょう)18年(1590)に相馬義胤(よしたね)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から本知分4万8700石を安堵(あんど)されました。
また、関ヶ原の戦では徳川家康にその行動を疑われ、いったん改易(かいえき)を命じられましたが、これも慶長7年(1602)に許されて、これまでどおり標葉・行方・宇多(うだ)3郡を安堵されました。

慶長(けいちょう)16年(1611)には、相馬利胤(としたね)が小高から宇多郡中村(相馬市)に城を築いて移り、以後、相馬氏は一度の国替えもなく、相馬中村藩6万石の藩主家として家脈を守り、明治維新(めいじいしん)に至りました。
明治維新まで存続した鎌倉以来の大名(だいみょう)は、相馬氏のほかに南部氏や島津氏など、全国に9氏ほどであったといわれています。

※1 現在の南相馬市に相当

奥州相馬氏系図

かっこ内の数字=相馬中村藩主代数

師常--義胤--胤綱--胤村--師胤--重胤--親胤--胤頼--憲胤--胤弘--重胤--高胤--盛胤--顕胤--盛胤--義胤--(1)利胤(としたね)--(2)義胤(よしたね)--(3)忠胤(ただたね)--(4)貞胤(さだたね)--(5)昌胤(まさたね)--(6)叙胤(のぶたね)--(7)尊胤(たかたね)--(8)恕胤(もろたね)--(9)祥胤(よしたね)--(10)樹胤(むらたね)--(11)益胤(ますたね)--(12)充胤(みちたね)--(13)誠胤(ともたね)--


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