相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第2回 中村開府〜築城と城下町の形成(2)

城下町の形成

中村の城下町づくりは、城ができた翌年の慶長(けいちょう)17年(1612)に、木幡太郎左衛門(こわたたろうざえもん)と岡田又左衛門(おかだまたざえもん)が中心となって行われました。城下町が完成するのは約40年後で、藩主相馬忠胤(そうまただたね)の代の明暦(めいれき)2年(1656)ごろといわれています。

中村城下町人町屋敷地図

▽中村城下町人町屋敷地図
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城下町は政治、経済の中心地であり、城の周辺には禄(ろく)の高い武士の屋敷が置かれ、禄の低い武士の屋敷はさらにその周辺に置かれました。そして、町の南と北の入り口には土手を築いて枡形(ますがた)をつくり、有事に備えました。現在も中野字北反町(きたそりちょう)と中村字田町・荒井町の境の2か所にその跡が残っています。

町はさらに商、工の職種によって住居が区分され、商人は大町、田町、南町(現在の宇多川町・うだがわちょう)、上町(うわまち)の4町に、工人の多くはそれを取り巻くように住んでいました。宇多川南の中野地区(通称向町・むかいまち)には、大工や鍛冶職人がまとまって住んでいて、大工町、鍛冶町といわれていました。藩は自給自足を建て前とすることから、城下町ではたいていのものが調達できるようになっており、いろいろな職種のひとが住んでいたといわれています。

また、町屋敷の規定により、4町における一屋敷の大きさは間口7間(12.6メートル)、奥行15間(27メートル)に定められており(間口が3間半のものを半屋敷という)、初期の町づくりは、市街地に屋敷を持っている者で3年以内に家を建てない者は土地を没収するという強行手段で進められました。

市街地でもっとも古いのは上町といわれ、慶長以前は本町(もとまち)といい、街道の主要地であったと伝えられています。町割りは、たびたび起こった火災のために逐次改修されましたが、全体的には、大きな変容はありませんでした。

現在の大町通り

▽現在の大町通り(西から撮影)

藩主相馬氏の中村移転に伴い、翌年の慶長17年には小高から相馬氏の祈願寺として、城の西南の熊野堂跡に歓喜寺(かんきじ・明治3年に現在地に移る)が移されました。ほかにも、相馬氏が下総(しもふさ※1)から下向(げこう)するときに付き従って来たと伝えられている長命寺、安養寺、真福寺、日光院、大蓮院、上之坊などが中村に隣接する西山、中野、小泉などに移り、これらの寺院が置かれたところは城下町扱いになっています。

また、同慶寺、蒼龍寺、円応寺、真光寺、慶徳寺、長松寺(明治初年に洞雲寺に変わる)、西光寺(明治3年、興仁寺となる)、仏立寺、光善寺、正西寺などが城下に点在していました。

城下町では、寺院の位置が防備上大きな意味をもっているといわれており、現存する寺院の位置からそのことがうかがえます。

※1 現在の千葉県北部と茨城県の南部にあたる。


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