相馬の歴史講座 「相馬氏の統治時代」

第1回 中村開府〜築城と城下町の形成(1)

中村築城

相馬利胤(そうまとしたね)は、慶長(けいちょう)16年(1611)7月、中村(相馬市中村)で城の造営に着手し、12月2日に小高(おだか※1)から移りました。以来明治4年(1871)まで260年間にわたり、相馬中村藩(そうまなかむらはん)、6万石、相馬氏(そうまし)の居城となりました。

相馬氏が中村城の造営にとりかかって、わずか5か月余の工期で入城できることになったのは、中世から使用されてきた中村城の完成度が高く、造営工事は修築的なものであったことや大広間(おおひろま)がそのまま小高から移されて利用されたことなどによると考えられています。

また、相馬氏が居城を中村に移した理由については、相馬氏が仙台・伊達氏(だてし)に対する守りを一層固めるためとか、徳川幕府(とくがわばくふ)との密約で仙台領に最も近い中村に移したとか、港が確保できる地として中村に移したとかいわれています。

中村城下地図の写し

▽中村城下地図の写し
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中村城は、この時期に一挙に完成したわけではなく、その後数年かけて整備され、やがて不要な門や塀は取り除かれていきました。

馬陵城(ばりょうじょう)ともいわれる中村城の全体的な特色は、石垣が主要部分にわずかにあるだけで、土塁(どるい※2)と枡形(ますがた※3)と水堀を巧みに利用したところにあります。

そもそも、中村城のはじまりは非常に古く、平安時代の延暦(えんりゃく)20年(801)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が対蝦夷戦争(たいえみしせんそう)のとき、西館(にしだて=中村城の西部一帯)に菅原敬実(すがわらけいじつ)を置いて守らせたのが最初と伝えられています。敬実は天神(てんじん=今の北野神社)を氏神(うじがみ)として館(やかた)を構えていましたが、それからおよそ300年後に、源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州合戦(おうしゅうかっせん)の帰途、天神林に馬をつなぎ菅原の館に宿営したとも伝えられています。

その後、中村城は居住者の無かった時代もあり、小高城の相馬氏がここに城代(じょうだい)を置いたりして、いくつかの変遷がありましたが、近世城郭(きんせいじょうかく)としてのたたずまいの整備は、慶長16年7月の相馬利胤の修築にはじまり、後の義胤(よしたね)の時代まで続きました。

最初の工事では、それまで城の南を流れていた宇多川(うだがわ)をさらに南に移し変え、城域を拡張して堀を深くし、一部に石垣を用いて本丸を中心に二の丸、三の丸を整然と区別するとともに、それぞれの郭(くるわ※4)には土塀(どべい)を回し、本丸(ほんまる)の西南には三層の天守閣(てんしゅかく・60年後落雷で焼失)が据えられました。

外大手一ノ門

▽外大手一ノ門

また、外大手門(そとおおてもん※5)の一角にも工夫の跡がしのばれます。外大手一の門と二の門の間にある枡形は、一の門の突き当たりに「武者落し(むしゃおとし)の堀」といわれる堀があり、その向こうの土塁の上に狭間(はざま※6)の付いた土塀を回し、二の門は楼門(ろうもん※7)で堅固な守りの仕掛けが施されました。また、本丸の乾(いぬい)の方角(西北)には、氏神(うじがみ)である妙見社(みょうけんしゃ※8)を置きました。

このようにして中村城は小規模ながら古くは蝦夷(えみし)に、新しくは伊達氏に備えたため北側には三重(南は二重)の水堀をめぐらした北側に守りの堅い縄張り(なわばり※9)の体裁の整った城となりました。

 

※1 現在の南相馬市小高区
※2 土を盛って造った土手
※3 土塁や石垣で囲った四角形の空間
※4 土塁などで区切った城内の一区域
※5 大手は城の正面 ⇔ 搦め手(からめて)
※6 矢、鉄砲などに用いる小窓
※7 2階造りの門
※8 妙見は北極星・北斗七星を神格化したもの
※9 城の設計、構造


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